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ACT.77『街へ戻って』

世話になった場所を

 いよいよ、長きに渡って道北・道東のルートを自分の旅路で支えてくれた旭川と本当の別れになる。
 長くの旅で、様々な場所に自分を導いてくれたこのターミナルには、感謝をしてもしきれない気持ちが残る。またこの駅から、流氷の流れる紋別に最北の稚内へ。常紋の険しく長い急峻な場所へ。自分を案内してくれるだろうか。
 旭川の駅を幾つか写真で撮影し、この旅の1つの節目にする事にした。
 この旭川駅は既に北海道の他の駅と異なり、高架化等で大きな発展を遂げている。

 現在は駅前の商業施設やバスターミナルがこの駅に大きく映え、交通の分岐点として。人々の生活拠点として大きく発展を遂げた旭川の駅。
 そんな旭川駅が誕生したのは、明治31年の事である。
 それまでは馬車交通が中心であり、交通網も発展しなかった旭川にとって鉄道の到達は大きな出来事として人々の心を揺さぶったのである。
 旭川は明治34年の陸軍第七師団の札幌からの移駐によって軍都として発展したのが現在のような大都市に向かう1歩だったのだが、それ以降も街は大きく発展を遂げている。

 旭川市民たちの中で、最も大きく印象に残っているのはやはり昭和35年から改装によって誕生した地平時代の3代目駅舎だろうか。
 この3代目駅舎では、国鉄時代からの伝統や地平に発展した駅舎の形状を引き継ぎつつも、古風に味のある駅舎であった。横に駅舎は広がり、街のシンボルとして多くの看板が掲げられ一躍その姿は中心部に相応しい駅として中心で構える事になったのである。
 そして。写真に掲載し、自分が訪問した際の旭川駅舎は4代目の駅舎となる。この4代目駅舎は平成23年に開業した。高架化に関しては平成22年に終了しており、旭川駅は近代化に向けて脱却した。
 現在の4代目旭川駅のデザインを担当したのは『安曇野ちひろ美術館』などの建築デザインを担当した建築家・内藤廣が駅のデザインを手がけた。
 駅には先代の3代目駅舎のような古くささ。そして鉄の冷たい質感が完全に取り払われている。
 また、駅周辺に流れる川との親和性を意識した自然と調和する温かみを感じる駅舎に仕上がった。
 平成28年。函館に新幹線が上陸した。
 そして現在は札幌までの延伸が計画されているのだが…そんな北海道新幹線の最終延伸駅はこの旭川なのである。
 来る北海道新幹線の開業によって、この駅は本当の進化を遂げるのであろう。その時が非常に楽しみだ。

136キロを戻って〜2つの役者〜

 再び目指すのは、北海道の中心都市である札幌である。
 この区間ではライラック・カムイと2本の特急が走行している。今回はそのうち『カムイ』に乗車して札幌に再び戻る。
 両列車とも、本数は夜間時間帯まで拡充されており、函館本線の看板役者のような貫禄を見せている。
 そして自分の中では図鑑やメディアで触れてきた中でも数少ない、原形を保持している特急列車である。この789系を見た時。銀のマスクを変わらず被る姿を眺めし時。どれだけの安心感を感じたのだろうか。

 ではまず。ここで1つの疑問が生じると思うので触れていこう。
『カムイとライラックでは何が異なっているのか?』
という事だ。写真はライラック…として活躍している緑色の789系。かつては特急『スーパー白鳥』として青函トンネルを貫き、本州との連絡ルートの架け橋として活躍していた。
 しかし、789系による青函連絡の活躍は北海道新幹線の新函館北斗延伸を契機に終了し、函館本線で特急『ライラック』として第2の生涯を過ごしている。
 写真は乗車している特急・カムイ44号に乗車する前の時間に札幌に向かう『ライラック』を撮影したものだ。
 異なっているのは、主に車両と列車番号である。写真のライラックの場合、列車番号は『号数+3000M』を冠している。対して、カムイの場合は『号数+2000M』を冠している。

 自分が乗車している『カムイ』の場合は、『カムイ44号』である。この場合、カムイ44号…という事になるので列車番号は『2044M』となる。
 また、車両設備にも大きな差が出ている。
 乗車している『カムイ』より解説していこう。
 『カムイ』の場合は、銀色の789系1000番台が担当している仕事だ。この789系1000番台には、グリーン車が連結されていない。『カムイ』の編成内には、編成中4号車に指定席車・『uシート』を併結している。
 一方、緑の789系0番台。『ライラック』の場合はどうだろうか。
 『ライラック』の場合、指定席車両は勿論連結…なのだが、旭川方面の先頭車両が半室グリーン車となっているのである。
 これが列車として、車両設備の差異に出ているのである。2つの特徴を持つ列車の支えによって、函館本線は30分毎の特急街道を確立しているのだ。

電球色を背にして〜札幌への道〜

 19時丁度の時間。特急『カムイ44号』は札幌に向かって発車した。自分の場合は特に意識をしていなかったのだが、思えば旭川に向かう時には『ライラック』で。そして旭川を出る時には『カムイ』での移動であった。
 函館本線を瞬足の電車に駆られて、少しだけの長い旅路が始まる。
 列車は19時丁度に旭川を発車すると、19時18分には砂川。19時32分には滝川に停車し、函館本線で細かく乗客を回収していく。
 最初は乗客もまばらに乗車していたものの、流石は北海道の大動脈としての幹線。自分の横にもサラリーマンが乗車してくる程の大盛況と車内は化し、交通機関の支える札幌〜旭川の重要性を感じたのであった。

 『カムイ』…という列車は、北海道の中で永遠の功績を持つ列車であろう。
 『カムイ』…という名称が誕生したのは小樽から上芦別までを走行する気動車準急に昭和34年命名されたのが最初…なのだが、『カムイ』という列車は昭和43年の小樽〜滝川までの交流電化に伴う電車急行として711系電車…通称・赤電が平仮名名称の『かむい』として電車急行で運転を開始する。
 北海道初の電車急行として、『かむい』の名称は使用されていたのである。北海道初の電車優等列車として、現在の源たる大きな功績を背負ったのだ。
 現在の片仮名名称『カムイ』は平成19年に
『ライラック』・『スーパーホワイトアロー』を統合した『スーパーカムイ』が元祖である。
 少しニュアンスが異なる状態…ではあるものの、銀色の精悍なマスクを被ったこの電車は間違いなく赤電の遺伝子を継いだ由緒たる後継の存在だろう。
 またいつか世話になる時は、そうした歴史にも身を馳せたいものだ。

 20時25分、再び北海道の中心都市である札幌に帰ってきた。
 途中、列車は美唄に19時50分。岩見沢に20時丁度、と停車し、伝統と北海道初の電車優等列車の名を引き継ぎ交通の基盤を背負う特急列車は、無事に完走した。
 到着し、高架橋の中に組まれた線路の複雑な構造。そして響き渡る放送の忙しなさを聞いていると自分が中心都市に帰ってきた感覚を強く植え付けさせられる。
 ちなみにこの札幌駅のホームは、中島みゆきの名曲…ホームにて、の舞台にもなった場所と言われている。
 そしてそのホームにての歌詞にある『空色の汽車』。また、もう1つ。名曲…ファイト!の歌詞にある『東京行きの切符』はこの駅の中での出来事とされている。
 自分事になってしまうが、ホームにて…に関しては自分を小学生時代から奮い立たせている名曲で、まさにその舞台にいる事が非常に嬉しく思う。
 だが、そうした感傷には浸っていられない。
 宿から安否を心配する電話が掛かってきた。
「何時頃になりますか…?」
の問いの電話に、自分は
「とりあえず夜くらいには…」
と宣言した。が、もう十分に遅い時間だ。
 カムイ44号の中で着信を受け取り、デッキ内で必死に返信をしたのだが非常に恥ずかしさに苛まれ胸がいっぱいだったのである。
 さて、ここからは北海道遠征の完全な後半に入っていく。
 今夜は札幌市内で宿泊する事になり、北海道屈指の大都市を象徴するあの交通手段で移動する事になっているのだ。

生まれ変わらせた、手段

 札幌市内の中心部。この場所は、とにかく人通りも多ければ交通の手段も様々になっている。
 市電・バス。そして今から乗車する地下鉄だ。
 この地下鉄は昭和47年の札幌五輪開催を契機に開通した交通手段であり、北海道に劇的な変化をもたらした交通手段と言っても良い。
 と、この地下鉄。事前勉強を多くして乗車に臨む程に自分の中ではかなり期待を張り巡らせており、今回の旅での『メインアトラクション』のような感覚さえ持っていた。…決して交通手段に対して抱く感想ではないのだが、うん。
 写真は、初の札幌市営地下鉄の乗車として乗り込んだ南北線の1幕である。
 北海道の地下鉄…というのは、圧倒的に他と異なる差異を持っている。
 実は乗車前、
「あえて1本乗り逃してから乗車しよう」
と思い、少しだけ耳を張り巡らせてみた。
 すると、聞こえるではないか。あの音が。
 札幌市営地下鉄に乗車すると、遠くからロボットが発射台に向かってエレベーターで登るような
『チュン…チュンチュン…キュンキュンっ…』
というサウンドが地下内で反響する。
「ホンマに鳴るやんけぇ!!」
待たせている中、申し訳ありません。

 そして、乗車し向かったのは札幌の中心的な場所にして交通の交錯する場所である大通だ。
 まずは乗車の記念に撮影した駅名標を。
 南北線の駅名標だ。路線のラインカラーである緑色が映えている。札幌駅にはこの南北線の他にも、青いラインが基調の東豊線も入線している。そちらに関しては今回多く乗車する事はなかった。(事前に告知)
 さて、ここから本格的な乗車の話に向かおう。
 乗車して、まず感じるのは車両の引力であった。加速が凄まじいのである。そして、乗車していると札幌の地下鉄独特の感触が足を伝う。
 この都市の地下鉄は鉄の車輪を採用していないのだ。何を採用しているのか…そう、コレが他の地下鉄と異なる点である。
 『ゴムタイヤ』を採用しているのだ。一般的には、バスや重機。そして日常的に利用する乗用車と全く同じあのタイヤである。
 そうしたタイヤの機構、走行の伝導が足を伝ってきた。独特の少しボコボコした走りである。

独特な魂で

 札幌から大通まではすぐに到着する速さであった。そりゃあ、1駅だからなぁ…
 写真は大通駅を下車してすぐの写真。札幌市営地下鉄は東豊線を除外して、やたら注意喚起や案内のサインが古めかしいのだ。東豊線は近年の開業の為、そうした要素は見えないのだろうがそうでない南北線・東西線では非常に時代を感じさせる表記が連続する。
 と、写真は大通を下車してすぐに撮影した写真。かけ込み乗車の注意喚起表示なのだが、看板を見て驚愕した。なんと、車両のサインが昭和47年の南北線開業時の車両になっているのである。どれだけ時代が進行してないんだ…
 しかし、そうした時代を感じさすサインとは裏腹にして。線内には安全の為に張られたホーム柵で乗客の安全を確保している。

 ここで早速、乗車した地下鉄の車両に関して紹介しよう。乗車したのは、南北線の現在の主力車両である5000形だ。見た目は新しく近代的に伝わるものの、『ゴムタイヤ地下鉄』という特殊機構な車両なのが生涯に大きな負荷を掛けているのか車両更新もなされているほどだ。
 平成7年に登場した5000形。平成11年に導入が完了し、それまでは南北線の車両は旧来の車両。2000形との混在した車両運用を実施していた。
 また、後々の札幌市営地下鉄の基礎になる車両であるのも特徴だ。既に引退してしまった東豊線の車両である8000形の車両構造の基礎になり。また、落成時には既にVVVFインバータ制御を搭載していた。
 現在でも南北線では更新されて第一線での活躍が継続されているがこのほど、新型車両開発での置換えが宣告された。時期はもう少し先になるようだが、自分が乗車したこのタイミングが最初で最後にならない事をどうか祈りたい。

※阪神ジェットカーは日本有数の高加速電車である。発車してから加速度4.5キロ〜4.0キロの異次元的な加速で駅間を疾駆し、列車全体の速度向上を担っている。その高加速ぶりは、札幌の市民たちの足と全く同じデータになっているのである。

 少しだけ解説に関しての寄り道をしよう。(宿の時間はええんかい)
 札幌から乗車した際に『引力的な勢い』で加速していったのがあまりにも印象的だった。
 改めて、その点に注目したい。実はこの加速力を体感できる場所が我が地元…京都の近くにあったのだ。それが写真、
 阪神ジェットカー、である。札幌市営地下鉄は加速度が4.0キロ。これは阪神ジェットカーの加速度に匹敵するものであった。
 阪神ジェットカーの加速度は、先代の5001形(写真掲載)が4.5キロ。そして5500系・5550系・5700系の現在の車両たちが4.0キロと全く同じ…いや、その同等の加速度なのである。
 駅を発車してからの起動加速度に関しては完全に関西都市圏で活躍する通勤電車たちと全く互角だっったのは、データを見た時に唖然としたものである。
 この異次元にも近い車両の加速度…が、札幌市営地下鉄の引力的な発車の秘密だったのである。

 さて、写真を戻して。
 大通で撮影した、南北線5000系の写真である。設定に関しては完全に即席でイジったものになっているので、そこはどうにか。
 個人的にはこの5000形車両が何となく札幌市営地下鉄ではイチバン好きな車両である。角張った形状、そして鋭角で形成された前頭部の姿と灯具類がカーブを巻いているところが面白い。
 そして写真を見ると、足回りが隠れているのが分かるだろうか。実はコレ、第三軌条の地下鉄でお馴染みのサードレールなのである。
 そのサードレールに関しての話は、また翌日に。

 この大通には、札幌市営地下鉄の全路線が乗り入れる。札幌の地下鉄のジャンクションとも言える場所だ。
 札幌に地下鉄が開通し、昭和47年の札幌五輪と同時に躍進を遂げる以前。新たな交通手段を札幌に呼び寄せる時の事だ。
 このジャンクションを見ていると、時の札幌市交通局局長の男・大刀豊のあの言葉を思い出す。
『銭さえ払えば、クマでも乗せてやる』
という言葉だ。
 この言葉は、地下鉄を札幌に通す際に官僚たちと話し合った際に出た言葉である。当時の札幌市の人口は80万人程度。そうした都市に地下鉄を呼び込もうなど、時の考えでは全く無謀とされていたのだ。
 こうした言葉に対しての返答が、
『銭さえ払えば、クマでも乗せてやる』
という大刀の言葉である。この大刀についてはまたじっくり、札幌の街の中で解説していこう。
 しかしこうしてジャンクションと化した札幌の地下鉄道網をみているとあの言葉が嘘のように近代発展を遂げ。地下鉄は市民の足としてしっかりした基盤を形成している。
 そうした皮肉を訴えられる中から、ここまでの成長を遂げたのには大きな感動を思うものだ。

もう1つの路線へ

 あまりにもレトロなサインだらけなので、写真を切る手が止まらない。移動中、何回カメラに足を取られて乗り換えた事か。
 本当に時を止めたままのような札幌市営地下鉄のサイン類には感動を受ける。このまま永久にこの状態で保管され、全国から人を呼ぶツールにならないだろうか。
 さて、南北線を大通で下車して次の乗車は東西線である。JRとターミナルを分つ新札幌から発寒付近、西区の宮の沢に向かって走る地下鉄だ。
 あまりにも夢中だったので、写真のピンが完全に飛んでいる。見苦しいもので大変申し訳ない。

 続いて、東西線の大通駅。こちらは島式のホームだ。
 ホームドアで隔てられているが、この地下鉄の特徴が写真の中にいくつかある。
 1つは、ゴムタイヤ式独特のコンクリートの道だ。札幌市営地下鉄はモノレールのようにして線路を跨いで走行しているので、線路は真ん中に一筋といった構造になっている。
 そして、東西線以降の特徴。東西線からは札幌市営地下鉄は架空線方式となり、架線が架けられた。先ほどの側面を流した写真を思い出して頂きたい。サードレールで車両の足回りが隠れていたのだ…が、第三軌条方式を採用しているのはあの南北線が唯一なのだ。

 到着までまだ時間があるので、対向列車を撮影して時間を潰す。
 東西線の現在の主力車両・8000形がホームに入ってきた。南北線の緑色で角張った車両とは異なり、オレンジ色で丸みを帯びた車両である。そして札幌市交通局、STのロゴも誇らしげに入っている。
 全く異なるイメージを持つ車両だが、自分的にはどちらも捨て難い。5000形も良いのだが、特に8000形に関しては図鑑で見ていた事もあって更に感動が増してきた。
 この8000形は琴似より先、宮の沢までの延伸による輸送力強化を目指してその前年。平成10年から順次導入されていった車両である。
 札幌市の地下鉄道網の躍進を見守り、更なる乗客の獲得を築いた車両だ。
 ホームドアが隠しているのが残念だが、車両の丸みは美しい車両のデザインと平成世代らしい冷たさを持っているので、ぜひ皆さんも札幌に行った際にはじっくり眺めてほしいものだ。

 さて、移動して。円山公園へ。
 この円山公園に今回宿泊する宿施設がある。と言ってもゲストハウスなのだが。隣駅が◯◯丁目となっているのを見ていると、自分が札幌に。北海道の中心に帰って来たのだと改めて思わされる。
 とにかく急いで安否とチェックインをせねば。
 半ば急かされつつ、そしてレトロなサインや設備に後ろ髪を引かれつつで大変な状況の中宿に向かった。
 というか京都の人なので、こうして見てるとあまりにも帰って来た感がしますよね。あ…福岡市営地下鉄の祇園もそうか…
 早い感傷を抉ってしまったようだ。

斬新さを収めて

 札幌市営地下鉄に乗車し、改札を通過していると他の地下鉄にはない特徴がまた目に入る。
 これも、札幌市営地下鉄の斬新なシンボルなのである。
 通常、地下鉄に乗車すると改札の横に駅員がいる。これは日本全国、東西を問わず何処の地下鉄も同じだ。改札を通る時、駅員から
「ありがとうございます」
などの掛け声を聞いた事があるかもしれない。
 しかし、札幌市は違う。
 改札に駅員が配置されていないのだ。
 当時の日本の鉄道事情を見てみよう。
 札幌市営地下鉄が南北線として開業した真駒内〜北24条までの昭和47年。日本の鉄道の改札は、駅員による切符を切る有人改札が大半を占めていた。そうした中で、自動改札機の導入は実に先進的な仕組みであった。この札幌市営地下鉄の試みは、正に
『オリンピックの開幕を見据えた国際的な玄関』
の地下鉄として大きな存在を示したろう。
 写真を見てわかるように、札幌市営地下鉄が自動改札を導入した時期は自動改札が普及しておらず、札幌市独自の規格にて自動改札機を整備し主導した事が特徴である。
 写真で分かるのは、
『自動改札機が常時開扉している事』
にある。他の地下鉄の改札は切符を通して改札の扉を開扉させるシステムだが、札幌は異なる方式となったのである。
 独自の進化と独自の目線で切り開いた地下鉄を降り、宿への道を急いだのであった。

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