僕と恋と夫くん。

 「閉吐憂」という人間は、女性である。
 これに対して私は何も問題を抱かない。私の性自認は間違いなく「女性」だからだ。

 「閉吐憂」という人間は、異性に恋をする。
 これに対して私は異を唱えたい。私はそもそも「恋」をしない。ずっと恋だと思っていたものが、それは「友人の域を超えない好意」であると気付いたのは大人になってから。それまでは「性別関係なく恋に落ちる駄目人間」だと思っていた。それくらい誰に対してもすぐに好意を抱く。ちょっと優しくされた、とか、楽しくお話ができた、とか、笑いかけられた、とか。コンビニの店員さんの愛想笑いにだって多分「恋に落ち」ることはできる。でもそれはただの「ああ、いい人だなぁ」の意味でしか、ない。

 「恋」というのは「愛」に繋がる。
 「愛」とはなんなのか、と自分に問いかける。
 返ってきたのは、「想うこと」だった。

 それならば私は手の届く範囲にいる人間を皆愛していることになってしまう。恋していることになってしまう。それじゃ困る。困るのだ。
 だって私は、既婚者だ。

 既婚者の恋、というのは、不倫となり、そしてそれは倫理に反し、罪となる。私はそんなこと望まない。「不倫するだって? そんなら離婚してから好きにしろ」と思うタイプである。そんな私が自らの不倫なんて望むだろうか。答えは否でしかない。
 けれども話を戻すが、私はすぐに「恋をする」。人を好きになりやすい。簡単に、もっと言えば、チョロい人種だと自分でも思う。
 けれども「その先」への欲はない。

 ここからが本題だ。

 「恋」をし、「愛」する人との交わりを望みますか。
 答えは、否、だ。嫌だ、といっても過言ではない。

 私は、自分が女性として見られることが、嫌だ。女性である自分が、嫌だ。女性でしかいられない自分が、嫌だ。そして、性行為に繋がる異性とのあれやこれやが、嫌いだ。
 それでも私の中の「正しいこと」はずっと、「女は男に愛されて子供を産む」だった。母親がずっと言い聞かせていた「専業主婦なんてつまらない」の言葉を受けながら、それが一番正しいことだと刷り込まれて生きてきた。
 それに、何一つ自分で生きる術を持たない未熟な女が、社会に組み込まれ、どうにか生きていくためには、その正しいことが何よりも頼みの綱であった。
 伴侶を、そして、子供を。
 その為に活動しようとしていた時期もあった。いわゆる婚活である。それは今結婚している「夫くん」の行動により未遂に終わったが、婚活サイトには登録済みだったらしく、七年くらいずっと謎の電話がかかってきていて、先日たまたま電話に出た際に婚活のお話を振られ、そういえば登録したかも、と思い出したくらいのレベルで、決して本心から結婚したかった訳でもなかった。
 何より私は小学生の頃から、結婚願望は無いに等しかった。それでも子供だけは欲しかった。欲しくてたまらなかった。そして、自分みたいにはならないように、愛して愛して大切に育てて、友達みたいに気を許してもらえる存在になりたいと望んでいた。小学生が考えることかよ、と今更ながら自分にツッコミを入れたいが、その当時は本気で思っていた。子供は絶対に産むぞ、と。
 その熱意は無事冷めることなく、しかも願望なんてなかったのに結婚までして、私は母親が世界一嫌悪していた「専業主婦」になった。

 だが可笑しい点があったと思う。
 「閉吐憂」という人間は性嫌悪を持つ。当然、触れ合いに対しての嫌悪感は拭い切れるものではなかった。
 普通の男性ならば、相手が嫌がっていることが分かれば辞めるか、もしくは酷い人間性の持ち主ならばキレるところだ。ところが、「夫くん」はそうではなかった。ある意味、酷くぞんざいで鈍感な彼だから、傷付くことはなかったのかもしれない。それに私が彼を受け入れたのは、「最高の友人」であり、そして「心身共に受け入れてくれる」という安心感を抱かせてくれたから、だ。
 私は、「私」という人間が嫌いだ。自己肯定感は0だ。人間嫌いな癖に、すぐに人間を好きになる。信じていない癖にすぐに信じて、そして何度も裏切られ、妬まれ、蔑まれて生きてきた。悪役にされることも幾度もあった。私の中では明らかに相手がオカシイ事案でも、全部私のせいにされることばかりだった。それでも人間が嫌いで、人間が大好きな私は、だからこそ「人間である自分」が世界一嫌いだ。好きになどなれない。いつも憎んでいる。いつも呪っている。そういう風にしか生きられない。そこにいつの間にか「女性である自分」も加わってしまって、私は本当に本当に、何処までも自分を嫌うしかなくなってしまったのだった。

 そんな中、「それでもいいよ」と言ってくれたのが、「夫くん」だった。彼は鈍い。彼は緩い。人の話は聞いてないし、人の言うことも聞かないし、その癖いつも同じ間違いばかりして私の機嫌を損ねる選手権があったらきっと世界チャンピオンになれる。それでも、彼は、私に、

「憂ちゃんは憂ちゃんにしかなれないんだよ」

 と初めて言ってくれた人だった。

 私はずっと嫌悪していた。自分も、性別も、性行為も、異性も、同性も、つまりは世界を、憎悪していた。
 それを一瞬だけでも、晴らしたのは彼だった。
 だから私は、どれほど嫌なことでも、彼の為ならば受け入れよう、嫌われないようにしよう、彼の為に変わろう、と決めて、そうやって生きることにした。
 妊娠をし、結婚をし、何度も喧嘩して、自殺未遂もして、DV紛いの事件も起こして、離婚も覚悟したけれど、それでも私は、「女性」だから「夫くん」と一緒にいられる幸福に感謝しなかったことは、一度だって、ない。
 あんなに嫌だった「女性であること」を成立させ、その上で私は彼に訊いた。

「私ね、すぐに人を好きになるの。でもそれは友達止まりでしかないの。多分あなたのこともそうなんだと思う。異性としての好きじゃないの。だから多分これから先、異性の好きな人も出てくると思う。嫉妬させることもあるかもしれない。それに私は、性嫌悪があるの。キスもSEXも嫌いなの。そういうことをする自分に吐き気がするの。それでも私と一緒にいてくれる? 私を好きでいてくれる?」

 それに対しての彼の答えは、こうだった。

「ふぅん。それで?」

 拍子抜けである。え? それだけ?
 彼は言う。

「だって、それと俺が憂ちゃんを好きなことは別だし」

 彼は、鈍い。けれど時に本質を正しく見せてくれる。

 そうなのだ。私の中身と、彼の私を想ってくれる気持ちは、別物なのだ。それは、彼を変える理由にはならない。私は、間違いなく、幸福だ。ちっとも難しいことを理解しない、理解しようともしない癖に、本質の大事な部分はきっちり把握しているような、変人を「夫くん」にできたのだから。
 私は許可を得た。「女性」を貫かなくてもいい。自分を嫌いでもいい。性嫌悪があるままでいい。それでも離れたりしないよ、というお墨付きで。

 こうして私は、いえ、「僕」は世界一大切な友人と一緒に暮らしている。友人としか思えない夫。セクシャルマイノリティの僕は、名称で言えば、アロマンティック・アセクシャルで、パンセクシャル。だからこそ、時々、本当に時々、「異性」として意識して、僕は戸惑い、顔を赤らめ、照れ隠しで、いや、簡単な喧嘩の度に本気で、言うのだ。離婚なんて望まない、幸福にまだ浸かっていたい僕の、精一杯の悪足掻き。

「ばーか! 嫌い! もう絶交だから!」

 「夫くん」は笑う。

「何度目の絶交だよ。はいはい。仲直りしようねー」

 僕は、「夫くん」のそういうところが、世界一大嫌いで、世界一大好きなのだ。そして何度も恋をしている。

※アロマンティック・アセクシャル
 アロマンティック『アロマンティック(Aromantic, aロマンティック)は、「他人に恋愛感情を感じない」(「恋愛指向が他人に向かない」)セクシュアリティです。ただ、恋愛指向と性的指向は別物ですので、性的欲求を誰かに抱く場合はあります。』
 アセクシャル『他者に対して恋愛感情も性的感情も抱かないセクシュアリティです。』

※パンセクシュアル
『全性愛、パンセクシュアリティとは、男性ないし女性等の性の分類に適合しない人々も含め、あらゆる人々に恋をしたり、性的願望を抱いたりするという、全ての性的指向を内包する汎愛性の高い愛に於る形態である。全性愛の性質を持っている人を全性愛者、パンセクシュアル、パンセクという。性的少数者のひとつ。』

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