「アルクアラウンド」と私

 私とサカナクションの出会いは「アルクアラウンド」だった。

 「アルクアラウンド」に出会う少し前の私は毒満載の実家を飛び出し、同棲生活を始めたものの、その男があまりにもクズすぎて心身を完全に故障し、それでも何処に逃げることもできず、唯一その男を止めることができたそいつの友人の優しさ(この時点ではまだ人間としての優しさだった。下心なんて微塵も感じなかった。私が鈍感だっただけか?)だけに縋ってどうにか息をしていた。そのうち急に友人は私を「女」として扱い始めた。優しさがいつの間にか性処理との引換券みたいになって、でも少なからず「慈愛」のような、「庇護欲」のような、彼の何かしらのエゴが満たされることに私自身も満たされた。共依存、だったのかもしれない。そんな始まり。
 精神的、肉体的、性的、金銭的。あらゆるDVを積み重ねる男を捨てる決心をしたのは、このエゴだらけの友人がいたからだった。上っ面だけの「好きだよ」に揺さぶられて、本心だと信じようとしたのは私だ。いや、恐らくある意味では本心だったのだと思う。1mmも何の感情も抱いてない相手にそんな言葉をかけられるほど器用な人には見えないし、そんな相手の世話を焼くだなんてよっぽどの阿呆かお人好しか聖人君子だけだ。私に囁く「好きだよ」は他の相手にも同じ熱量と湿度を含んでいるのだ。ただそれだけ。私が特別な訳ではなかったし、他の誰かが特別になれる訳でもない。過去そうだったように、これから先もそうだろうと思う。とにかく、そんな風にして私は最悪な男から最低な男に流れた。優しさを餌にされて、私から提供できたのは体と言葉だけ。
「お前が彼女ならいいのに」
 そうやって寂しそうに笑うことで私の心の内側をごりごりと削っていたことなんて、彼は知らないだろう。じゃあ今すぐ別れて私を彼女にしたらいいじゃん。そんな言葉が喉元まで迫り上がっては吐き気を催した。陳腐だ、陳腐すぎた。あの時の彼も私も。そしてそんな激安タイムセールもドン引きの恋愛未満共依存の成れの果てに辿り着く。

 遠距離恋愛の彼女と別れるなんてできないから申し訳ないけど君が出て行ってくれ、と懇願された。
「私に行く所なんてないの知ってて言ってるの」
 辛うじて絞り出した反撃の言葉。それにすら彼は俯いて「ごめん」と言うだけだった。

「分かった」と答えた時の安堵は空気を伝って私に届いたのよ、知ってた?

 どうしようかな、とぼんやり考えた。私の持っている物で誰かに渡せるものなんて、何もなかった。何の取り柄もない、資格も経験もない、ちゃんとした住所もなく保証人もいない、所持金もほとんどない、知り合いもいない、頼り方も知らない21の小娘にできることなんて、体を売ることくらいしか思いつかなかった。とにかくどうにかして今夜の居場所を確保しなくちゃ。何件も何件も風俗店に入店希望で面接に出向いた。東京の片隅、まだ肌寒い頃。頭のてっぺんから足の先までを何度も往復する目線と、「すみませんが今回はご縁がなかったと言うことで……」の言葉。どこかの店では「そんな見た目で何楽しようとしてんの?」という嘲りも受けた。よくある広告の宣伝を信じて向かえば「見てるだけで給料もらえる訳ないでしょ」と一蹴された。ネットサイトで個人を相手にどうにか凌ぐか……と充電の少ない携帯電話と睨めっこしている時に声をかけられた。
「君、仕事探してるんでしょ」
 明らかに怪しいおじさんで、さすがの私もちょっと引いた。
「いえ、別に、次の面接行くので」
「んー、じゃあその前にちょっとだけ時間くれないかな。そこの喫茶店で飲み物ご馳走するからさ」
 実際ずっと縦横無尽に歩き回っていたものの、飲み物代はケチっていたので喉はカラカラだった。私が躊躇してるのを感じ取ったのか、おじさんは「話聞くだけ聞いて断っても大丈夫だから」「人目のある所で話すってことを考えてくれたら嬉しいんだけど」などと畳み込んできて、頼まれたら断れない性格の私はまんまと「……ちょっと高いのでもいいなら」と話を聞くことを了承したのだった。
 結論から言えばやはり風俗業のスカウトだった。私が面接を落とされ気落ちしながら就職雑誌を睨みながら歩いていたところを見られていたようだった。分かりやすいおだての言葉、そして「うちの条件は広告の所よりもいいよ」とか、とにかく引き込もうとしているのが丸分かりの誘い文句。私は逆に興味を引かれ、どっちにしろもう戻ることはできないし、戻る気もないし、落ちるとこまで落ちてみよう、と謎の決心をしてしまったのだった。
「分かりました。で、どうすればいいんですか」
 私の返答に逆におじさんは焦り、何を思ったのか、「本当にいいの?」「今ならまだ断れるよ?」などと言ってきたので、とても愉快で、最高に不愉快になった私はおじさんにニッコリ笑ってみせた。
「おじさんが誘ってきたんですよ」

 おじさんの斡旋で2、3件お店を回ることになった。のだと思う。あまり記憶がない。ちゃんと「商品」になるかどうか、「味見」しないといけないとかで、おじさんとホテルに入ったような気がする。そこから店探しをして、そのうち夕方になっていて、お腹もめちゃくちゃ空いていた。おじさんは私のことを少しは気に入ってくれたのだろうか、「せめて体全部売らない方がいいよね、稼ぎは少し落ちちゃうけど、寮もあった方がいいんだよね」と、相当気を回して店探しをしてくれたように思う。途中で「僕たちみたいなスカウトにもね、いい子を紹介するとお金が入るんだよ、君はとてもいい素材だし、真面目そうだから途中で逃げることもなさそうだし、お行儀のいい子は高値になるんだよ」とか、「君みたいないい子ならこんな仕事しなくてもどうにかなるだろうに」とか、「育ちが良さそうだね、教育されてる感じがする。ご両親はそれなりのご出身なんじゃないかい」とか、とにかくとてもうざかったことだけは覚えている。
 見つかった店は「ピンサロ」と呼ばれる業態だった。所謂「お口」だけで奉仕する店だ。体での奉仕はご法度。客も出禁、嬢もクビになる。一人接客して報酬はお店と折半。大体が八千円とか一万いかないくらい、の半分が給料。宣材写真から指名されて、少しのお喋りと客の要望に合わせたプレイ。お触りもキスもあり、時にはこちらが舐められることもある。二度目以降の指名だと指名料が、客からドリンクをもらえればドリンク料がそれぞれもらえる。店内は薄暗くて、嬢の待機場は同じ店内の一角。じゅるじゅるという卑猥な音や喘ぎ声に上書きするように、BGMには流行りの曲ばかり集めた有線が流れていた。待機中には店に置いてある漫画を読んでいても良かった。私は「ハチミツとクローバー」を読み漁っていた。片思いの連鎖、ままならない恋愛の青春群像劇は当時の私の心情にドストライクだったのだ。漫画を読む気分になれない日はひたすら店内のキモチワルイ音とそれを掻き消す為のBGMを目を閉じて聴いていた。自分の存在が消えてしまうような感覚と、消えてしまえと念じながら強く強く抱えた膝の痛み。客と触れ合った人数分、切り刻んでいた左手首。

 そんな中だった。「アルクアラウンド」が聞こえてきたのは。

 『僕は歩く つれづれな日
  新しい夜 僕は待っていた』

 イントロから私は飛び起きた。当時の携帯電話には歌詞検索機能や、携帯に音楽を聞かせると瞬時に検索してくれる機能があったのだけど、私はそれらをフルに活用して、どうにかこの音楽の正体を突き止めようとした。なかなか上手くいかず数日かけて、その曲が有線で流れる度に歌詞を記憶し、携帯のメールの下書きにメモを取った。そうして私は「サカナクション」と出会った。

 『嘆いて 嘆いて 僕らは今うねりの中を歩き回る 疲れを忘れて
  この地で この地で 終わらせる意味を探し求め また歩き始める』
 『声を聞くと惹かれ すぐに忘れ つらつらと
  気まぐれな僕らは 離ればなれ つらつらと』
 『何が不安で何が足りないのかが解らぬまま』

 私のことだ。そう思った。何度聞いても、今聞いても、そう思う。彷徨い歩いて、目的地も分からなくて、死ねなくて、何も捨てられなくて、振り切れなくて、それでも、惨めでも、歩き続けて行かなくてはならない私のことだ。
 風俗に片足突っ込んでおいて、その時まだ彼女と別れてもいない癖に、毎晩のように私を心配している文面を送ってきて、長電話したりして、馬鹿な話の中で突然、切ない声色で「寂しいよ」「帰ってきてよ」なんて言われては揺らいで、「別れてからそういうことは言うもんでしょ」と強がって、「そうだよな、ごめん」「追い出したのは俺だもんな」と笑う声に罪悪感で死にたくなっては、自傷行為を重ねながら性の対象に成り下がることで更に自分を蝕ませていくことだけが生きる方法だった。そんな汚い私のことだなんて、サカナクションにも「アルクアラウンド」にも申し訳なさすぎるけど、あの時、この曲に出会えたお陰で、一人の夜にも耐えられたのだ。

 あれからもう十年と半分が経った。それでもこれを聞くと、あの薄暗い店の端っこで蹲って、消えてしまいたかった夜を思い出す。場所が変わっただけで、私は相変わらず、膝を抱えて死にたい夜を繰り返してはいるけれど、不特定多数の欲望に塗れる生活を辞められたことだけは不幸中の幸いなのかもしれない。一人ぼっちの夜、痛みを優しく包んでくれて、その上で背中を押すのではなくて、手を握って一緒に夜を歩こうと誘ってくれるような曲だったから、救われたんだと思う。私にとってサカナクションはそういう音楽だ。寄り添うだけでなくて、共に進んでくれるような、そんな種類の優しさを包括している。
 今夜も私はサカナクションを聴いている。「アルクアラウンド」「新宝島」「アイデンティティ」「忘れられないの」「ネイティブダンサー」……、そして今は「僕と花」だ。どの曲でも感傷に浸りそうになる。死にたい気持ちのままでいられる。それでもまた立ち上がることを見透かされているような敗北感。決して出鱈目に明るい訳でもない、かといって滅茶苦茶に絶望的ではない。淡々とそこにある「悲哀」や「喪失感」を感じる、その中毒感が好きなんだろう。この先も好きでいるんだろう。
 ……そして、そこに"彼"も一緒に在るのだろう。限界まで。『僕ら』は『惹かれて』『忘れて』『気まぐれ』で『離ればなれ』になっても、結局何も『解らぬまま』、『歩き始める』んだ。

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