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【ネタバレ】ティアキン感想

 ゼルダの伝説ティアーズオブザキングダム(ティアキン)をクリアしました。端的に言って史上最高傑作だと思います。同作の発売は2023年5月だったのですが、僕は7月に今年一番重要な国家試験を控えていました(就職にモロ響くやつ)。強い意志を持って勉強の合間にチマチマとプレイすることにしたところ、6月までのプレイ時間が70時間を超えてしまい(?)あえなく試験に落ちることになるのですが、そんなことはどうでも良くなるくらいによかったです。僕はデジタルゲームに全く詳しくないのですが、この感動を誰かと共有せずにはいられませんでした。しかし、サークル内の友人は皆のんびりしたプレイスタイルな上にネタバレ厳禁なので、現状この思いを誰にも伝えられていませんこんな時のためのサークル仲間だろうがよッッ!!お前ら全員プレイが遅えんだよ!!!!。そのため、ここに書き殴ることにしました。
 特に後半はドネタバレを含んでいるので、未クリアの方は絶対に読まないでください。


翔ける 創る 紡ぐ

 僕は、高いハードルとなるコンセプトを設定したこと、それを徹底的に実現したこと、に、ティアキンの最高傑作たる所以を感じました。

 ティアキンのコンセプトは、「翔ける、創る、紡ぐ」です(パッケージ裏に記載されています)。この3つの単語は、前作ブレスオブザワイルド(ブレワイ)が同様に掲げていた、「駆ける、活かす、護る」をおそらくは踏襲し、それを超えるハードルを設定したものになっています。以下では、前作のコンセプトとその実現に触れつつ、今作のコンセプトと実現について、私なりに思ったことを書き連ねていこうと思います。


翔ける

 「翔ける」は、前作の「駆ける」に対応した第1のコンセプトです。音を重ねてくるのがもうオシャレ。ニクいですね。


駆ける

 「駆ける」とは、文字通り、”広大なマップを自由に駆け回ることができる”、というブレワイの根幹のゲームシステムを指します。”リアルな世界を走り回る”ことを打ち出すオープンワールドゲームでも、”これより先には進めない”とか、ストーリーの順序があるとか、どこかで制約があることが殆どです。しかしブレワイでは、リンクの行動は暑い・寒いといった気候や、体力(がんばりゲージ)によって事実上制約されているにすぎません。ストーリーの進行順もプレイヤーに任されていますし、リンクは最初から壁をよじ登ることができるので(オープニングで壁を登らせることでプレイヤーに悟らせるのがこれまたニクい)、その気になればストーリーの進行を無視してどんな場所でも行くことができます。マップそのものは驚くほど広いわけではないのですが、山や崖といった縦移動も相まって、世界がとても広大に感じられたことを覚えています。

 ティアキンでは、「翔ける」というコンセプトが設定されました。「翔ける」とは、誰の目にも明らかなように、(「駆ける」以上に)空を大地を自由に翔け回る、という体験を指すのでしょう。その実現のために加わった大きな目玉要素が、三次元移動です。元々、ブレワイのマップは京都市の市街地を参考に作成されたことで知られ、強力な移動手段が少なかったこともあり、かなり広く感じられるものでした。ティアキンでは、そこに地下と空中のマップが加わり、リンクの活動エリアは誇張抜きで3倍近くに広がっています。


オープニング

 「翔ける」の実現にあたり、まず凄いと思わされたのがオープニングです。

 オープニングでは、傷ついたリンクが目覚め、洞窟の中を歩んでいきます。その時に、崖から下にある池に飛び込むシーンが3回あります。はじめは小さな崖ですが、だんだんと高くなり、3回目には数メートルの高さになっています。3回目の崖だけなら、プレイヤーは飛び込みを躊躇うでしょう。でも、順を追って高い崖から飛び込ませることで、プレイヤーが”飛び込み”というスリルあるアクションに踏み出せるようになっています。ブレワイでいうところの、崖を登るアクションの学習と同じです。

 そして、仕上げです。洞窟の向こうに小さな光が差し、プレイヤーにチュートリアルが終わることを悟らせます。リンクが洞窟を出ると、広大な空が広がり、そこは遙か上空であることが分かります。そして、リンクの目の前には、空中に向かって先の途切れた道だけがあります。

 確信しました。「飛べる」と。リンクはここから飛び込むことができます。他の道を探したり、先に進むためのアイテムを手に入れたりする必要はない。数千メートルもの高度に見えるこの場所から、リンクはただ前に飛び込めばよいのだ、とゲームが語りかけてくるのです。
 
 実際に飛び込むと、風を受けて飛ぶリンク、印象的なメロディー、広がる世界とともに、タイトルロゴが浮かんできます。ああああ満点じゃないですか・・・・・・。オープニングってもっとこう、イベントだけが流れるか、「敵に近づいてAボタンだ!」みたいなメタなチュートリアルに終始するか、大抵どっちかじゃないですか。具体的な説明は何もされていないのに、世界がどれだけ広いのか、リンクがその世界をどのように翔け回るか、この数分で僕は知っている。これ以上のオープニングを僕は知らない・・・・・・。


眺望台

 ブレワイにおける探索の要は、各地に突如現れた古代の遺物、”シーカータワー”でした。これを解放することで、周辺のマップが明らかになります。一方ティアキンでは、似たオブジェクトではありますが、”鳥望台”という存在に変更されています。これらの違いは、シーカータワーは踏破すると屋上部分でマップを得られる仕様なのに対し、鳥望台は1階部分にたどり着けば良く、台から打ち上げられたリンクが、空中から自力で周辺をマップにおさめるというイベント形式になっていることですね。

 シーカータワーが上記のような仕様だったのは、マップを解放するという必須行為を担う以上、遠くからでも見つけられる大きなオブジェクトである必要があり、同時に、見晴台としての役割を担わせるためでしょう。オープンワールドゲームでは地理的感覚が失われがちなので(あと単に景色を楽しんでほしいとかもありそう)、意図的に意味の無い高台を用意するゲームがあるようです。最近だとポケモンSVがそうですね。定期的に見晴らしの良い塔に登らせ、頂上の景色から周辺の地理的な印象を与えつつ、マップを明らかにする。踏破したときにぐるっと塔の周囲の映像が流れるのですが、平原のタワーと火山エリアのタワーでは印象が全く違い、新たなエリアにやってきたリンクの高ぶりや感動を追体験できる瞬間になっていたと思います。

 このような役割を担っていたタワーの仕様がなぜ変わったかというと、大きな理由は2つあると思います。まずは、登るのが一苦労だったんですね。退屈な時間が無いように練られていたブレワイにおいては珍しく、スティックを上に倒すだけの、長い虚無の時間がありました。ゲージが切れると落ちちゃって登り直しになったりするし。2つめは、見晴台の役割が低下したからです。空島を置くと決めた時点で、地上のオブジェクトが探索において担う役割はあんまりありません。空から飛んだ方が絶対早いですからね。また、ティアキンのプレイヤーの半数以上は前作をプレイしていると思いますし、今作では全く毛色の違うエリアである「上空」と「地底」がありますから、塔の周辺を見渡してもプレイヤーの感動は小さいことでしょう。そのため、1階にたどり着けば良く、かつ、単なる見晴台を超えて「打ち上げ台」という機能を備えた鳥眺台にした。

 そうはいっても、特に打ち上げ台への仕様変更は割と後付けなんじゃないかなぁ……?と思うんですよね(全然違うソースとかあったらごめんなさい)。というのも、リンクを空へ打ち出す台を各所に作ることには、恐らく抵抗感があったはずだからです。

 僕はアナログの謎解きゲームしか作ったことがないので全くの的外れかもしれないんですが・・・・・・。ドラクエとか考えると分かるように(ゲームシステムが根幹から違うドラクエを比較に出すことがあまり適切ではないことは分かってるんですけど、RPGの一般論として)、船にしろドラゴンにしろ、移動手段の獲得は活動場所の拡大を意味するので、必然的に後半になります。鳥望台のように、あれだけ高速で長距離移動ができる機能をつけると、プレイヤーにはじめから大きな武器を与えることになり、マップを狭くしてしまうし、可能なことが広がっていくゲーム後半の快感を縮減させかねないようにも思えるのです。

 一方、鳥望台のような打ち上げ機能が無いとした場合に問題になるのが、空島へのアクセス手段です。「創る」に担わせる(飛行機とかね)、というアイデアを除けば、ワープするしかないことになります(龍を操って飛ぶ、とかもあり得ますが、恐らくストーリーと後述の「創る」との関係の両面でダメだと思います)。空から陸へは自由落下、陸から空へはワープ。それはウ~ン、ってことなんでしょうね、きっと。すべての空島にワープポイントを付けられるわけじゃないでしょうし、空でも探索の楽しみを出さないわけにはいかない。結果的に、陸から打ち上げる方法になった、ということなんでしょうか。いつの段階から意図したのかは分かりませんが、降りる時ってパラセールを使いがちなので、打ち上げ時が本作の空中移動の一番の爽快感を担っている気がします。リンクが打ち上げられたときの風景の色合いの変化で高い所に来たのが感じられるの、めちゃくちゃ良いですよね・・・・・・。

 今作ではゾナウギアが一定時間使用すると消える仕様になっています。当然のように受け入れたけど、よく考えるとまあまあ無茶苦茶だと思います。ゾナウギアが消える、みたいな設定上の説明はなかったはずなので。最初から得られる移動手段であること、マップの広さを保つこと、このゲームバランスの涙ぐましい調整の結果なのではないかと思います。


トーレルーフ

 もう一つ、「翔ける」の実現として言及を避けられないのがトーレルーフです。ブレワイとティアキンでは、物を動かす・くっつける、氷の塊を作る、物の時間を戻す、などそれぞれで特徴的なアクションを行うことができますが、その中でたぶん最も異質なのがこのトーレルーフです。

 その内容は“天井をすり抜ける”という単純なものですが、作り手の扱いは困難を極めたと思います。というのも、建物の中で使えば屋根の上に出る(2階建て以上なら1フロアだけすり抜ける)のは当然ですが、地底で使えば地面を通過して地上まで出てこれる、というあまりにもダイナミックな性能を持っているからです。

 トーレルーフの主な役割は、縦移動における救済にあったのではないかと思っています。三次元移動が目玉になっている今作では、当然ながら、プレイヤーが”上に登る”というアクションを取る必要性が前作の何倍にも膨れ上がったはずです。例えば、プレイヤーが降りるべきでない段差を誤って降りてしまった場合、そのたびに壁を登らせたのではあまりに時間がかかります。また、浮いたオブジェクトを用意したい場合、そもそもアイテムがないと壁にすらたどり着けないという場合も出てきます。このほかにも、洞窟で迷ったときなど頼る場面は多く、大変便利な機能です。

 実際のところは、どこでもトーレルーフが使えるわけではなく、天井との距離がある程度離れれば使えないようになっていたり、天井が斜めだと使えないようになっていたりと、その使用範囲は絶妙に制限されています。とはいえ、体感上、トーレルーフを使用したいと感じる場所では殆ど使用可能ですし、不自然に建築物が減らされているといったことも感じません。何より、地面と地底はゲーム内の距離で500メートルほど離れています。これだけの距離を(しかも下から上に)一瞬で移動する機能を最序盤に解放するというのは、何というかバカげています。あらゆる使用ポイントを丁寧に確認しないとゲームバランスを崩壊させかねませんし、この辺は無知ですが多分バグの温床にもなるのでは?単純に制作陣がケアしなければならないポイントがめちゃくちゃ増えたはずです。脱帽です。

 そして、この先は自分でも何を言ってるか分からないんですが・・・・・・。トーレルーフがすさまじいのは、ただの移動救済手段にとどまらず、これを独自の(とりわけ謎解きの)体験として昇華している点ですね。”下から上にすり抜ける”というアクションがあることで、あるポイントに到達する方法が、歩いてたどり着く・空から着陸する、に限定されなくなりました。
 
 例えば、どうしても扉が開かない建物に対して、近くの井戸に入り込み、地下からトーレルーフを使えば、扉を開けずに直接建物の中に入ることができる、みたいなアプローチができます。また、後述のスクラビルドを使って自分の上に足場を組んでしまえば(すり抜ける天井を創ってしまえば)、任意の場所で縦移動が可能になり、例えば高所の宝箱にアクセスできるようになります。本作ではこのように、”直感的にはどう見ても無理だが、すり抜けを駆使するとどうにか突破できる“場面が随所にちりばめられていました。思いついたやつ普段何食ってんの?エグすぎん?素晴らしい。ただそれだけです。



創る

 「創る」は、前作の「活かす」を経た本作第2のコンセプトです。


活かす

 ブレワイは、プレイヤーがその世界の人間になっているかのような体験がめちゃよかったんですよね。世界からのレスポンスの良さって言うんですかね。草を燃やしたら上昇気流ができるし、木を倒せば橋になるし、木製の装備なら落雷を防げるし・・・・・・というような。文字にすると当たり前だけど、世界から帰ってきてほしい反応がことごとく帰ってくるのは、何と言って良いか分からないほど凄いことです。アイデアの量とチェックの量と。開発陣の方々は、このゲームの中に生きる感覚をオープンエアーと呼んでいるようですね。この点が、前作を史上最高傑作たらしめた点だったように思います。


ウルトラハンド

 さて、前作のオープンエアーを経て、ウルトラハンドです。本作の最も異常な点ですね。最初から最後までこの能力だったなって感じ。凄すぎて整理ができてないのであんま書くことないです。本格王道RPGで(というか伝統あるゼルダの伝説で)ここまで自由なクラフトをぶっ込んだ意味って何~~~~~?????前作でよかったじゃん。前作がすでに史上最高傑作って言われてたじゃん!!!!これをぶち込む発想も覚悟も実装力も訳が分からない。その世界の中に生きるどころか、創造主になってしまおう(当然世界は創った物にも期待通りのレスポンスを返してくれる)とは・・・・・・。

 ゲームの中での大きな影響は、謎解きの幅がべらぼうに広がった点と、多様な移動手段が生まれた点でしょうか。特に前者は唸るような祠がいくつもありました。二次元のゲームなら分かるんだけどね、物くっつけたり・・・。デジタルには総じて疎いのでまっったくわかりませんが、どうせエグい技術しとるんしょ?色々。特許の数みれば分かります(法学徒並感)。

 何か「創る」は本当に意味不明すぎて言う事が見当たらないのよな。手放しで楽しんだな、という感じ。完全に負けた。剣と弓のRPGで自動車とか飛行機出てくるの絶対おかしいと思うんだけどなんでこんなに面白いんだろう。企画書が読みたい。



紡ぐ

 「紡ぐ」は、前作の「護る」を踏襲した本作第3のコンセプトです。「翔ける」「創る」が本作の根幹となるゲームシステムを現していたのに対して、「紡ぐ」は専らストーリー面でのコンセプトワードですね。


護る

 僕は、前作のコンセプトのうち、「護る」が最も実現できていなかったものではないかと思っています。「護る」とは、近衛兵であるリンクが姫であるゼルダを「護る」、100年ものあいだ神獣の中に囚われ続けた仲間たちを「護る」、そして厄災ガノンからハイラルの大地を「護る」、こういった意味があったものと思います。

 しかし、ゼルダはストーリー開始時点から人柱としてガノンを押さえ込む存在であり、姿を見せずに声だけでリンクを導く存在です。最終決戦でもリンクをサポートするなど、むしろゼルダに護られたような感覚があります。また、仲間たちにしても、リンクは彼らを護れなかったからこそ今になって神獣に乗り込む必要がある訳で、「護る」というよりは「解き放った」感覚に近いと思います。そして、世界についても、厄災ガノンの影響があまり感じられません。リンクが訪れる各地方はそれぞれに困難を抱えているものの、 (間接的にはガノンの影響とはいえ)それは神獣によるものであり、最終決戦のときまで声を聞くことも姿を見ることもできません。また、ガノンがゼルダによって封じられた戦いから100年が経過しているということもあり、世界の人々は大半がガノンの脅威を知りません。何より、ストーリー開始時点からハイラル城がガノンのエネルギーに包まれているので、「何か明らかにやべえやつがフィールドの真ん中にいる」ということは感じ取れますが、厄災たるガノンの脅威を間近に感じる場面がありません。

 要するに、コンセプトの中でも最も重要はなずの、何かを「護る」という体験は、RPGの勇者としては当然な程度のものでしかなく、ブレワイ独自のものとしては提供されていなかったのではないか、と思うのです。

 対して本作では、「紡ぐ」という、RPGの勇者としては普遍的・抽象的な「護る」という行為に比べて、より特徴的な行為がコンセプトとして提示されています。「紡ぐ」という言葉には、想いを合わせる、繋ぐ、みたいなニュアンスがあるようです。本作でいうなら、ハイラル初代王家や賢者達の想いをリンクが「紡ぐ」、賢者達と想いを「紡ぐ」、そして何より、ゼルダの想いをリンクが「紡ぐ」、といった意味があるように思います。


手をつなぐ行為

 本作では、手をつなぐという行為が「紡ぐ」の象徴として描かれています。

 そもそも本作のオープニングは、リンクがガノンドロフの瘴気に侵され、右腕を失うところから始まります。傷ついた右腕ではゼルダを救うことができない。手を掴み損ねたシーンが印象的でした。

 ゼルダを探すべく冒険を始めたリンクは、ハイラル各地を巡るうちに、そこでの問題を解決します。その問題が魔王の手先によって引き起こされたものであることが分かると、各地のリンクの友人が盟友として協力を申し出てくれますね。ここでも、リンクと彼らが握手やタッチをするシーンが必ず挟まれるのが印象的です。ブレワイで英傑たちがリンクに力を授けたときは、このような強調はなかったと思います。封印戦争で6人の賢者が集ったように、リンクも賢者ひとりひとりと絆を紡ぎ、最終決戦に備える。実にいいですね・・・・・・(語彙力)。

 エンディングでは、リンクが地上に落ちていくゼルダを追いかけ、手を掴んで助けます。ここ、構図とBGMがまんまオープニングですよね・・・・・・。いや~~~、ここに帰ってくるのか。最初に手を掴み損ねてゼルダが地底へと落ちていくシーン、白龍へと変わり果ててしまったゼルダの横を飛んで冒険を始めるオープニングシーン、2つの場面との対比になっているんですね・・・・・・。リンクが自らの腕で掴んだことを強調するため、いつの間にか半裸にされている徹底ぶり。右手と右手が重なる瞬間まで、鳥肌が止まりませんでした。

 子供の頃にやったゲームってストーリーをちゃんと覚えてるんですけど、大人になるとかなり怪しくなってきますよね。前作はストーリーがやや薄め、みたいな評価をうけることもあったので(それでもめちゃいい話でしたが)、「紡ぐ」という軸に沿って、仲間の絆を強調した今作のストーリーは大変よかったと思います(少し暑苦しい点も無かったわけではないですが)。


私をさがして

 ストーリー開始時と、例のイベントをこなした時に聞くことのできるゼルダの言葉。今作随一の名台詞だと思います。初めに聞いたときはね、「なんやお前今回もおらんのか~い、結局ピーチ姫状態やんけ笑笑!」とか思ってたんですが、今となってはそんな自分をぶん殴りたい。「さがして」ですもんね。「助けて」ではない。もう私からあなたに会いに行くことはできない。だからどうか、この世界のどこかに飛んでいるであろう私をさがしてほしい、という悲痛な願い・・・・・・。ゼルダの印象が「守られる姫」から180度変わったこの瞬間こそ、個人的に最大の山場シーンでした。龍の泪のイベントを終えて白龍が飛び立つシーン、涙無しには見られなかった。今作はまさに「ゼルダの伝説」だった、というのはもう既にいろいろな所で言われていることですね。

 思えば、ティアキンにおけるリンクの最も大きな行動原理は、”ゼルダを探すこと”なんですよね。RPGだから”世界を救うこと”だと思ってしまうけど、あくまでガノンドロフの存在や世界の危機はだんだんと明らかになるものであって、リンクの最初で最大の動機は、消えてしまった姫を探すこと。

 これは、ゼルダとリンクの関係が一貫しているゼルダシリーズで、かつゼルダを救い出したブレワイの続編だからこそ違和感なく設定できることなのではないか、と思ったりします。メタ的にいえば、プレイヤーはラスボスを倒す為にゲームを購入しているので、世界を救え!といわれたら唐突でも受け入れやすい一方、何の思い入れもない姫をさがせ!と言われても、動機になりにくいと思います。・・・・・・とかなんとか言っていたら反証を見つけてしまったな。マリオだ。マリオをプレイするときはピーチ姫に思い入れなんか無いもんね。ただマリオはギャグっぽいアクションゲームなので、思い入れがないからゲームが楽しめないか、と言われるとそうじゃないですね。まあ、全くゼルダシリーズに触れたことがなく(僕もブレワイ以外はやったことないです)、ブレワイをやってなくても楽しめる作品であることに間違いはないです。ただ、各地での姫の目撃情報や敬愛の受け方を見聞きした際に、前作のゼルダを知っている人の方が、より当事者意識を持って楽しめるだろうな、と思います。「姫はそんなことしない!」とね。

 ところで、なぜメインの動機に探索が設定されたかというと、それは前作のリンクの動機と行動にいささかミスマッチが生じていたからだと思います。ブレワイでは、リンクはハイラルを脅かす厄災ガノンの対処のために冒険に繰り出したわけですが、リンクの性格であれば、神獣がどうとかいわずに真っ先にハイラル城に向かう方が自然です(ゲーム開始時点では記憶を失っているので、今すぐ姫を助けなければ!と思わなかったとはいえ、記憶さえ戻れば世界をくまなく回る意味は薄いはずです)。一方本作では、各地方の問題を解決する際には、必ずゼルダの目撃情報が関わってきます。加えて、新聞記者のペーンと共に進めるサブクエストも、ゼルダの目撃情報を得る行為です。一見遠回りに見える小さなクエストからも、ゼルダの情報が得られることが多い。プレイヤーに大変な量の”寄り道“が提供される中、それらが劇中のリンクが取るべき行動と限りなくマッチしていたのが本作の特徴だったと思います。続編であることを利用した、面白いテーマ設定でした。最高。


その他に思ったこと

 あとは、テーマとは直接関係ないけど、好きなところや残念だったところたちです。

すきなところ

 バトル面でいうと、ボスの個性。前作より強いですね。ガノンにせよカースガノンにせよ、前作はかなり印象が薄かったですからね。大きさもバトルスタイルも富んでいて、戦いが楽しかったです。とりわけフリザゲイラ戦は天空という場所もマッチして胸熱。オクタコスを選んで送り込むガノンドロフを想像するとかわいいね。ラスボスにしても、ガノンってスーパーガーディアンみたいな見た目してて、厄災!って感じじゃなかったのよね。刀一本で向かってくるガノンドロフは超かっこよかったです(好み)。

 演出面で言うと、まずはガノンドロフ戦。ガノンドロフの体力ゲージが右に突き出す演出、ちょっと笑っちゃいました。普通に真ん中に置けば良いし、ゲージの減り幅で調節すべきだから長くなる理由も無いもんね。でもめっちゃ強そうに見えるから勢いが大切ってことだよね。
 あと黒龍との上空決戦。ガノンドロフが秘石を飲み込んだとき、やられた!!と思いましたね。秘石を飲み込んだ人間がどうなるか、我々はもう知っているから。予想通りで、予想より邪悪な黒い龍が出てきたとき、感動に近い興奮を覚えました。最終的に黒龍の額に刀を突き刺して終わったときに気づいたけど、すべてが白龍と対になっていたなと思います。覚悟の上で悠久の時を飛びハイラルを見守ってきた白龍と、無様に足掻いて破壊を尽くすだけの存在に成り下がった黒龍。刀が刺さる部分も同じ。白龍の助けを得て黒龍にとどめを刺す。こんな美しい終わり方が他にあろうか。いや、ない。


 ストーリー面では、喜びと悲しみのメリハリ(?)。ストーリーテリングを全く勉強していない僕の体感ですが、前作と今作ではゼルダと賢者(英傑)の役割が逆転していたように思います。

 前作の基本構造は、4人の英傑を100年の囚われから解放し、そして100年間戦い続けていたゼルダを救う、というものでした。神獣をクリアする毎に英傑たちの記憶を取り戻したり想いを受け継いだりはするけれど、彼らはもうそこにはいない。神獣のクリアには、どこか寂しさ・悲しさ・切なさが漂っていたように思います。そのような谷を経て、リンクが初めて真に救うことができたのがゼルダです。これが山。
 この構造は、お話としては大変よかったのですが、感情の起伏がやや弱いように思っていました。
 まず、プレイヤーはゼルダへの思い入れが少ない。ゼルダとの思い出は世界各地で「ウツシエの記憶」のイベントをどれだけ解放するかに委ねられていますが、あれ、ポイントを見つけるのがかなり難しいんですよね。一般人がプレイしていたら、最終決戦までに全部解放することはあまりないと思います。まして、記憶の大半はゼルダが重圧に押しつぶされそうになって苦しんでる場面だしね。ゼルダとのイベントをあまり見ていないし、見てもそんなに感動的なシーンがない。救う対象としての思い入れがそんなに大きくなかったね、というのが前作のゼルダでした。
 また、英傑たちの存在感もちょっと薄かったかな・・・・・・みたいなところがあります。特にウルボザとダルケル。リーバルは最高だったよ。ミファーも恋するかと思った。でもウルボザとダルケルに関してはルージュとユン坊の方が覚えてるんだよねぇ・・・・・・。最終決戦で神獣を操って手助けしてくれるのは100年前の英傑たちなので、作り手側が描きたかったのは、リンクと子孫達との絆ではなく、英傑達との絆であることは明らかだと思います。ただ、それが薄い。リーバルは本当によかったんですよ!!100年越しにリンクに負けを認めるところとか、切なくて!!!ミファーも想いを伝えられなかったのがとても!!切なさを4種類用意するのって難しいのかもしれないですね。

 これに対して、ティアキンの構造は逆です。というより、山が一つ増えています。
 初めに山があります。各地の問題を解決する度に、リンクの下には仲間が増えていきます。前作の神獣の時と違って、こいつらはボス戦直前で投げ出して帰ったりしません。共闘で絆を生み、最終決戦でも手を貸すことを約束する。分身とはいえ、リンクの下には共に冒険をする仲間が増えていきます(こいつら操作性最悪だけど、そこはまあいいです)。今作でも彼らの先祖が登場しますが、今回の主役はあくまで現在を生きる者たちです。名前はおろか、仮面を被せて顔まで隠す徹底ぶり。今の仲間から目を離すなよ!!!という作り手の強い意志を感じます。
 その次に、めちゃくちゃに大きな谷が出てきます。ゼルダが人の姿を捨ててしまったことですね。リンクがマスターソードを手に入れる行為は、ゼルダを1万年の役割から解き放つ行為でもあります。これ、前作で4人の英傑を解放したときと一緒だなぁと思いました。ただ、今作ではその時の悲しみがとても強い。多分それは、前作のゼルダからの成長と覚悟を感じ取れたことが大きいと思います。前作のゼルダは、上述の通り王家の姫の役割に押しつぶされそうになっている弱い存在でした。一方で、今作のゼルダはハイラルを救うために果敢に封印戦争に参加し、自らの姿を投げ打ってマスターソードをリンクに託している。龍の泪のイベントは地上絵によって上空から見つけやすくなっているし、マスターソードというキーアイテムが掛かっている以上、ほぼ強制解放です。前作で英傑が負けたシーンはありませんでしたが、今作ではゼルダが龍になる直接的なシーンがあります。このように、今作では前作の悲しみを濃縮してプレイヤーにぶつけてきた感じがあります。
 最後の山は前作と一緒です。ゼルダを救うこと。でも、その前の山と谷が大きいからこそ、前作よりかなり喜びが大きかったと思います。また、ラストシーンで「手をつなぐ」という前作にはない印象的な演出がありました。最後のひと山の強調もあり、前作より数段素晴らしいストーリーになっていた、と思いました。


残念なところ

 バトルとしての黒龍戦。白龍がリンクを助けてくれる所も、黒龍の存在自体も、上述の通り満点です。ただ、バトル自体は満足度が低いかなって思います。基本構造はフリザゲイラ戦と全く同じな上に、チューリのサポートと飛び降り攻撃がないことで、バトルの爽快感が失われている。弓でのダメージが小さすぎて、黒龍に飛び降りた後に、剣でゆっくりと「おりゃ!おりゃ!」状態でした。ガノンドロフは絶対にマスターソードで倒すべきなので仕方ないのですが、巨大ボスとのバトルで剣を活かそうとするのはだいぶ無理がある感じがしますね。例えば、あの場面だけ白龍を操作できるようにして、空を飛びながらそのままの勢いで黒龍を切りつけられるようにして欲しかったかも。

 想定と違うルートのケア。これは自由度や没入感とのトレードオフかなと思うのでしょうがない気もするんですが、今作はイベントをこなす順番によって受け取り方が全く違いますよね。どこで真相に気づくかによって体験価値が変わるというか。最初に偶然白龍に乗ってしまったら目も当てられない。せめて、龍の泪で見られるイベントはどこから拾っても順番通りでいい気もするんですが、ダメなんでしょうかね。僕は初めの方に結構後半のムービーを見てしまった記憶があります。気になってマスターソードも序盤で手に入れてしまったから、後の各地方のイベントの感動が明らかにゼルダ編に負けてしまっていたし。

 盟友の操作性の悪さ。拾おうとしたアイテムを何度ユン坊に燃やし尽くされたことか・・・・・・。あと口笛吹いても集まらないし。何なんだ。


 めっちゃ長くなった。最後に言っておきますが、制作陣のインタビューとかは丁寧に参照していないので全然誤りがあります。長文を読んでくれてありがとうございます。おわり。

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