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元カノが婚約した夜、じいちゃんが死んだけれど

それらはすべて、去年の暮れごろに起こった。僕は残業終わりの満員電車でなにげなくひらいたインスタグラムによって、その夜、高校時代の元カノが婚約したのを知った。

とんでもないことが起こった、という災害時の不謹慎な昂奮にも似た感情が湧きあがってきた。いまさら未練など感じるわけでもないが、かつて交際のあった女性が婚約をするのははじめてだったから、どうすればよいのか全然わからなかった。

僕は帰りの電車を落ち着かない心で過ごし、どうするもなにも、僕にはどうすることもできない、という当たり前のことを考えた。そうして、これまで流れ作業のように押してきたいいねとは比にならない重みのこもったいいねを、おそるおそる押した。

すっかり疲れきって帰宅すると、家が妙に静まりかえっているのを感じた。母親の姿が見当たらなかった。なんとなくいやな感じをおぼえてリヴィングにはいると、ソファで横になっていた父親が起きあがり、今日、じいちゃんが死んだ、といった。

去年の正月にはまるでそんな影もなかったのに、祖父はこの一年間で急激に衰えて認知症までわずらい、近ごろはずっと入院生活を送っていた。一時は回復の兆しも見えたらしいが、今日の夕方あたりに容体が急変して、これはいよいよだろうということで母親が病院に向かったのだという。

僕にはもう驚いたり悲しんだりする余力が残っていなかった。ただぼんやりと、今日はめちゃくちゃな日だということを思った。

さらに悪いことには、これらはすべて月曜日の夜の出来事だった。僕は従順たる会社員として、当然、翌日も出勤しなければならなかった。このときの混乱が尾を引いたのか、翌日はやたらぼうっとして、客先に向かうタクシーに折りたたみ傘を忘れる始末だった。

一方で、僕にはある確信があった。それは、いま自分の人生が大いなる転換を迎えようとしている、というものだった。

高校時代の元カノが婚約したその夜に祖父が亡くなるというのは、さながら映画の筋書きのようで、これからなにか特別なことが起こるのに違いない、という期待を僕に抱かせたのだ。

僕はその期待を天啓のようにとらえ、昼休憩のオフィスを抜け出して駅前の宝くじ売り場に急いだ。いまなら大金が当選するだろう、という予感に満たされて、年末ジャンボを九千円分買いこんだ。僕の貧しい想像力は、人生の変わる手段を宝くじのほかに思いつかなかったのだ。

当選番号の発表を待ちどおしく過ごすうちに、世間は年末に向けてしだいに浮かれていった。ショッピングモールではあらゆるセールやキャンペーンが開催され、たまたま家電を購入した僕は、そのレシートを提示してくじ引きに参加することができた。

四回くじを引き、五百円分の商品券を二度引き当てた。前に並んでいた家族は十数回も引いてポケットティッシュしかもらえていなかったから、これは異様な幸運だといってよかった。僕にはこの二枚の商品券こそが、これからはじまる壮大な転換の序章のように思われた。

年が明けた。僕は緊張に手を震わせながら、ホームページに掲載された当選番号と、手許の三十枚とを照らしあわせていった。一枚一枚を舐めるように丁寧にあらためる。ひと通り終えるともう一度はじめから確かめた。それを三度やったところでようやく僕は、一枚も当選がないことを認めた。

はげしい落胆に襲われながらも、どこかで、ああ、やっぱり、という諦念が起こっていた。僕の人生は映画ではなかったのだ。元カノの婚約に祖父の死が立て続く夜があっても、僕の人生にはなにも起こらない。運よく商品券を二枚引き当てるような幸福が時おり訪れるだけなのだ。あれは序章などではなく、もはやクライマックスだった。

冬の風が吹きすさぶなか、僕は商品券を握りしめて、ショッピングモールに出かけた。そうして折りたたみ傘を買った。

なお、「高校時代の元カノ」に関する記述につきましては、ご本人に承諾を得て掲載しております。

一銭でも泣いて喜びます。