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私たちは誰と戦っているのか/人の悲しみは奪いたくない(1/31)

40代に突入し、身体的な不調や心配事もさることながら、精神的に新しいフェーズに入ってきたなという実感で一日一日の存在感が増した。要するに、自分自身に対して強制的に敏感になっている。毎日が新しい発見や成長の連続だった前途洋洋な子供の頃と構造上は似ているけれども、むしろ人生が本当に大変なのはここからだったのかという途方もない"発見"をしてしまった。

中年に自殺者が多いのとかって、もちろん社会制度の欠陥や個人単位の責任とか重圧もあるだろう。でもそれよりも、それなりに必死で頑張ってきたのに「えっと、実は大変なのはここからです。今までのはむしろ、人生のお楽しみコーナーでした!」と突然の宣告を受けて絶望を覚えてしまう人が少なくないからじゃないかと個人的には感じている。

これまでとは全く質の違う戦いが始まっている。

若い時は、短所はひとまず力技でねじ伏せておけるくらい自分の長所を如何に伸ばせるかが主な勝負内容だったし、若さゆえに許されてきたこともあった。社会は欠陥だらけだが、決して悪い大人だけじゃなかった。だって若かった頃の私は確かに若さを許されてきた。今、先輩方々へ感謝の気持ちもある。
そして、他者との戦いを強いられる場面も必要悪として存在していた。勝ち残っていくためには競合する相手がいて、相手がいるからこそ区切りとか終わりがあって、今から思えばペナルティをもらって戦っている感じ。

でも40代からは、力技でねじ伏せてきた自分の短所が肥大していることに気づき、ではこれをどのように処理していかなければならないのか、戦う相手が完全に変わっていると気づく。今、私が戦うべき相手は自分自身で、しかもその中でも弱さ/トラウマ/短所 方面。もう本当にきつい(苦笑)。
これは悲観/楽観みたいな性格属性の話ではなく、人間だもの、レベルの宿命ではないか。

まあどの世代にも悩みは当然あるし、成長の速度は人それぞれではあるが、私の周りの同世代にも、一見仕事は順調でも形容し難い不安に襲われていたり、深刻化した悩みに絶望している友人が増えた印象を持っている。少なくとも「お茶せーへん?」「あそぼー」とかより「話を聞いてほしい」「ちょっと会いたいんだけどさぁ…」というLINEが増えた。これは私が相談役として頼もしくって連絡が殺到!とかじゃなくて、それくらいに切羽詰まっている証だと思う。

私個人としては、昨年10月くらいに母親と久し振りに大きな衝突があり、そこから昔少し患っていた精神的な病気が再発し(苦労して治してから、もう何年も経っていたのだが)「ああ、また振り出しに戻ってしまうのか」という徒労感と絶望感に激しく落ち込み、再び己の戦いを始めていた。全く元に戻ってしまうことはなく何とか踏ん張りながら新年を迎えているが、おそらく根本的には治すというより抑え込んでる感じ。共存?
私の悩みの9割はもうずっと母のことだ。これが生きている限り続いていくのだと思うと、時折、もう全てから解放されたいと願ってしまう(そんな度胸など結局ないのだが)。

詳しくは今回は割愛するとして、個人がたった一つの項目をクリアするのもこんな感じで本当に壮絶、という話がしたかったわけです。誰かから見たら"些細"なことが、実際どの程度なのかは分からない。人のことなんて絶対に分からない。だからこそ、いずれにせよ苦しみを歩くのが人生なら、他者の苦しみを無視したり、悲しみを奪うような生き方はしたくない。

震災のニュースを見る度に、自分の無力さとか薄情さとか被災地にいない後ろめたさとかに打ちひしがれるのだが、少なくとも他者の悲しみを奪う恐ろしさには自覚的でありたいと思っている。
例えば「誰かが身内を亡くして悲しんでいる。私も身内を亡くしたことがあるからあなたの悲しみがよくわかる。」これは一見寄り添っているように見えるけれど、悲しみを奪う危険な思い込みだと私は思っている。だって当事者からしたらこれは"私"の悲しみであり、"あなたのものではない"から。あなたに悲しみが奪われてしまったら、私は泣けなくなってしまうんじゃないだろうか。

前述、母についての悩み事のひとつにそれがある。私の声はいつも、かぶさるようにして甲高い声で降りかかってくる母の声に掻き消された。この悲しさを聞いて欲しい私を無視して「自分はわかっている、何故ならあなたを生んだのは私だから」という恐ろしさで自分のストーリーだけを語って泣き出す母。私の悲しみや苦しみはいつだって奪われ、私は泣くことができなくなってしまった。(そして病との戦いになっていくわけですが)

分からないことをちゃんと分からないままの状態で受け入れることには勇気と誠実さがいる。自分の悲しみではなく相手の悲しみに耳を傾けるための。人が悲しんでいる時、救いが欲しい時、聴く側のストーリーなど全く必要としていない、というかむしろそれどころではないはずだ。この本質的な部分は、家族だから、友達だから、あんまり親しくないし、と言った相手との関係性によって変えるものではないと思う。

うんちくウゼー!同情されたり共感されることで救われてる人もいるんだよ!心配には変わりないんだからつべこべ言うなよ!と言われたら、それはマジにそうで(そうなんかい、笑)結果的に救われている人が一人でもいるなら、こればかりは結果オーライで良いのだと思う。だけれども、という話。

そんなわけで私は今日も自分自身の短所と戦いながら、誰かの悲しみを奪わないように寄り添う方法を模索し、それらを小さな器で丁寧にやろうとするものだからあっという間に夜を迎えてしまう。私の器がもっと大きかったなら、自分の言動に逐一疑問を投げかけたりせずもっと上手くやれていたかも。
でもそんな世界はないのだから、やっぱりやれることをやるしか道はなさそうだ。

PS 日記を書くようになってから写真よりも思考メモばかりがiPhoneに蓄積されているせいで、今日のトップ画はカープソースで作った手前のケール焼きそばになります。大雑把なご飯写真ばっかりで失礼!

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