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「寒い」と「暖冬 」20231229

現在、2023年12月29日午前5時。

今年の冬は暖冬だそうだ。
とは言えやはりこの時間帯は底冷えする。
日の出る日中はパーカーにダウン一つでなんとかなるくらいには気温が上がるが、日が出る前のこの時間帯は流石に冬だ。
私はというと電気毛布の上で布団に包まりながらさながらキャンプの様に凍えながらこの文章を書いている。

昨日、仕事納めをしてきた。
新しい職場での一年間がようやく終わった。
仕事の出来不出来を考えるのは健康に良くないのでそれはしない。
ただ一年間働いてみて人にも恵まれているし環境も良い職場なので余程のことがない限り長続きしそうな気配がしている。
元来働く事に抵抗のある人間がそう思うのだから良い職場と言えるのだろう。
自分の家はほぼほぼゴミ屋敷であるのに職場の大掃除は割と乗り気でやってしまった。
テレビの裏に積もったホコリを拭いながらなんとなく行く当てのない感謝の気持ちを宙に浮かべる。

しかしまあ一年間の早いことこの上ない。
歳を取ると一年が早くなる、と先人たちに散々ぱら聞かされた文句を身をもって実感する。
昔から年上の言うことは歳を取ってみないと本当の意味が分からないままだ。
それは他人の言葉を疑う癖の悪いところなのであろう。
こうして過去何度も聞かされては疑ってきた事の答え合わせを続けていくのが人生なのかも知れない。

何故このタイミングで日記を書こうと思ったのかまるで分からないがアドリブで思うことをつらつらと書き留めようと思う。

私は性根のひん曲がった人間である。
そして頑固だ。
常に世の中との摩擦を感じながら、それを社会性が担保される様折り合いを付けて生きている。
何もこれは特別な事ではない。
社会に生きる大人は大概その様にして生きているし、その折り合いが上手く付けられなければ社会の枠から外れてしまうだけの事だ。
子供の頃は社会に対する漠然とした疑念を抱えていても、そもそも自己で設定する社会の輪郭が不透明であるから折り合いをつける事自体が訓練の一環でしかない。
しかしどうだろう。
30歳を超えいよいよ無邪気な若者とは呼べなくなった今、私は世の中との折り合いにまた悩んでいる。
それは例えば政治に対する世間との距離感であったり、芸能や組織にまつわる加害の問題であったり、私の想像の及ばないやり方でリアルタイムに命や尊厳を戦争によって奪われている人がいるという事実であったり。
およそワイドショーを通じて知る情報だけでは観測しきれない現在ある問題に対してそれらをどう受容し、どう反応をするべきかまるで分からないのだ。
そうした話が例えば世間話の話題になった時、私は何と言えばよいのだろう。
「難しい話ですよね」とお茶を濁す自分がひどく自覚的に恥ずかしい。
私がこれまで生きてきて、僅かながらに獲得した世間との折り合いのつけ方がこうであるならば最早それらには自分で認められる価値など何も無いのではないかと思えて仕方ないのだ。
SNSの普及の時代は終わりを迎え、SNSは社会インフラの一つとなったと言って差し支えないだろう。
この様な情勢の下、「声を挙げる」という行為が鮮明に視覚化される様になった。
私なりにできることは無いのだろうかと共鳴する署名活動に参加するなどを続けている。
その一方でリアルの知り合いと社会的な話題になった時、声を挙げる事を諦めている自分が惨めで仕方ない。
勿論、納得の行かない意見に賛同する事はない。
かと言ってそれは違うと思いますと、面と向かって発言する事を躊躇してしまう。
そして、話題はなかったかの様にまた別のテーマに移っていく。
ああ、また、自分の声を諦めてしまったと自己嫌悪に陥る。
あろう事かそう自己嫌悪に陥った自分さえ一晩眠れば忘れていたりする。
これが果たしてこれまでの人生の積み重ねの結果なのか。
これが私の獲得した世の中との折り合いの付け方なのか。
そうした事を一年を振り返ってふと思い返している。
諦めではない折り合いのつけ方を獲得していくのがこれからの目標となるのかも知れない。

取り止めのない文章になってしまったが誰の読むでもない備忘録とする。

束の間の冬休みだ。
二度寝をしよう。

今日はここまで。

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