ミカサ・アッカーマンはヴェーネ・アンスバッハだったのだろうか、あるいは物語における反出生主義の位置づけについて

 2021年春、10年以上続いた『進撃の巨人』の連載が完結した。去る6月9日には最終巻となる34巻が刊行されたが、最終巻を知らせる各種広告への言及が行われた他、最終巻が出たことでネタバレ解禁ムードが出ていることもあり、話題になった。

 この作品はある時期を期に、大きく転換していく。個人的にそうした転換点は二つあると思っている。一つはエレンたち調査兵団の一行が「グリシャの手記」を発見し、それを読むことで「島の外」を発見することだ(単行本21-22巻)。

 早くから島の外の世界の存在や、「海」の存在について言及してきたアルミンの仮説が証明されたわけだが、それはつまりこれまでこの作品を取り巻いていた世界観をがらっと変えることになる。つまり、「島の中」で人類が巨人たちと闘争することが文字通り大文字の政治と一致するのではなく、むしろ「島の中」と「島の外」の政治的対立構造として提示されるというわけだ。ゆえに「島の外」を発見したエレンたちは、政治的な交渉をせざるをえなくなってゆくが、同時に「島の中」が一枚岩になれない難しさも露呈してゆく。

 もう一つは、こうした展開の中で明かされてゆくジークの企みについてだ。マーレでの戦闘を終えたあと、ジークは飛行艇でパラディ島へ向かう。この一連の流れによって、ジークが島の勢力と合流し、次第に彼の思惑が明かされていくことになるが、彼の思い描いた「エルディア人安楽死計画」は反出生主義そのものである。反出生主義については、デイヴィッド・ベネターの『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』が有名だ。

 ただ、倫理学者の森岡正博がたびたび指摘するようにこのベネターの議論には欠陥が多い。そのため、思想史・言説史として「反出生主義をとりまくあれこれ」を森岡がレビューした著書『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』を読むほうがこのイデオロギーを理解するための一助となるだろう。森岡のこの著書では反出生主義の源流にあたる誕生害悪論や反生殖主義、またこれとは異なる出生主義も紹介されている。


 ジークの構想した「エルディア人安楽死計画」は誕生害悪論の主張に近い。そもそも、誕生することや、誕生させること(生殖)は悪であるという考え方だ。ベネターも基本的にはこの路線の主張をしており、生まれてくることによって経験する害悪と生まれなかった場合を比較すると、どれだけ生まれてきたことで良いことに恵まれたとしても、総体としては「生まれなかったことによる害悪の回避」には敵わないという主張である。

 しかしこの主張は、既に生まれてしまっている我々現存する人類にとっては空虚であるし(なぜなら既に生まれた以上、生まれる前に戻るのは不可能である)生まれたことによって得られる経験と、生まれなかったことによって回避できた経験は非対称であることを森岡は一貫して批判している。つまり、この二つの価値を比較することがそもそも適切ではないというのが森岡の批判だし、筆者もこの森岡の主張に首肯する。

 ゆえにジークに対して反駁するのであれば、誕生害悪論をいかにして否定するかといった議論をする必要がある。最終巻である34巻でたどりついた結論が誕生害悪論に対してベストな回答だったかどうかは分からない。ただ、ここで示された大きなものに対する小さなものによる抵抗は十分意味がある反駁だろうし、共感を呼ぶものでもあるだろう。

 話を戻そう。このエッセイで議論したいことは、「ミカサ・アッカーマンはヴェーネ・アンスバッハだったのだろうか?」という問いである。この裏返しとして、「ヒストリア・レイスはミネルヴァ・フェジテだったのだろうか?」という問いも思いつくが、一気に二つをやるのは難しいので今回はあくまでミカサ・アッカーマンの立ち位置や彼女の思想を整理するための道具として、『Seraphic Blue』の主人公の一人、ヴェーネ・アンスバッハを呼び起こしたいと思う。ちなみに彼女については2014年に長い批評「ハッピーエンドの失われた人生を生きるために――ヴェーネ論――」を公開しているため、こちらもご覧いただけると嬉しい。

 『Seraphic Blue』及びヴェーネ・アンスバッハと、『進撃の巨人』及びミカサ・アッカーマンについて個人的に簡単な整理をすると、以下の通りである。

(1):『Seraphic Blue』と『進撃の巨人』は反出生主義を内包したセカイ系の物語である。いずれの物語も世界内における政治的対立が、やがて世界や人類の存亡をかけた戦いへと物語の筋が変質してゆく。その変質の過程において反出生主義が重要な意味を持っており、『Seraphic Blue』におけるクルスク家と、『進撃の巨人』におけるジークは反出生主義者として各主人公たちの前に立ちはだかる。


(2):ヴェーネ・アンスバッハとミカサ・アッカーマンは、いずれも代えの利かない唯一無二の存在である。「救世としての天使」として誕生し、生きることを求められたヴェーネと、「アッカーマン」の姓を引き継ぎ、「最強の戦姫」として物語で重要な役割を負っている。そして、物語を直接的に終わらせるのは、この二人である。(ヴェーネはエルを倒し、ミカサはエレんを倒すことで長い戦いは終結した)

(3):ヴェーネとミカサの恋愛感情はいずれも挫折する。ヴェーネはレイクに対して特別な感情を抱いていたが、レイクは物語の途中で亡くなってしまう。ミカサもまた、幼いころからエレンのことを長く想い続けていたが、エレンが人類の敵として立ちはだかってしまうことで皮肉な形でエレンと対立する。エレンに対する複雑な感情を乗り越えてエレンを討つ(=戦いを終わらせる)ことでしか戦いは終わらないため、エレンと敵対して以降はミカサの葛藤が随所に描かれる。

(4):ヴェーネもミカサも、「戦いを終わらせるために機能するキャラクター」であるため、戦いが終わったあとの物語に参画する余地がない。ヴェーネはゲームのエピローグの中で自傷行為などに苦しみながら生きている姿が描写される。ミカサは精神的には安定しているが、生きる意味や役割を失ったことによって若くして静かな余生を送っている姿が最終話で描写されるにとどまっている。他のキャラクターが戦いの後の人生をそれぞれに生きていることが描写されるのに比べると、ミカサの描かれ方は対称的だ。

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 以上、簡単に整理してみたが、実際にヴェーネとミカサの共通点は二人にとってのペアリング、つまりレイクとエレンの存在によって二人の立ち位置が規定されているのかもしれない。レイク亡き後に自身の役割を果たす必要があったヴェーネ。エレンを討つことを長く躊躇いながら、最終的には決断せざるをえなかったミカサ。レイクとエレンの役割は全く異なるものの、ヴェーネとミカサがそれぞれ苦しい決断を重ねる中で物語が進行してゆく様子は、とりわけ反出生主義が重要な概念として浮上してきた物語の終盤以降は注目してみつめていた。

 「ヴェーネ」論において筆者は以下のような主張をしている。

 ヴェーネという個人に対して周囲が持つべき態度は、ヴェーネをどうにかすることではないはずだ。ヴェーネ自身のことは、ヴェーネ自分自身で決断することだ。それがたとえ死を選ぶことであったとしても。
 ここで考えられるのは二つの方法だ。一つはヴェーネ自身が「外部」へと手を伸ばすこと。もう一つは、「他者」や「社会」の側がヴェーネの人生に介入していくことだ。セカイ(そんなものはもう存在しないのに)に閉じこもっているヴェーネを、「外部」へと引っ張ってくることだ。いや、そんなことはできなかったではないかと指摘することもできる。しかしそれでも、ヴェーネを「断念すること」は果たして倫理的だろうか?

バーニング(2014)「ハッピーエンドの失われた人生を生きるために――ヴェーネ論――」p.20 

 前述したようにミカサとヴェーネの置かれた境遇は少し違う。ミカサはヴェーネほど悲愴感はないし、彼女には彼女に会いに来てくれる古い戦友たちがいる。その意味では、孤独な暮らしを送っているようには見えるが孤立しているわけではない。つまり、ヴェーネに比べると、ミカサはまだ「外部」とのアクセスをしっかりと保っているように見える。

 ただその上で指摘したいのは、ヴェーネもミカサも、いずれも生きる目的をいったんは失ってしまっているのではないかということだ。つまりミカサもまたヴェーネのように、「ハッピーエンドの失われた人生を生きる」ことを要請されている(彼女が自死を選ばない限りは)と考えられる。

 結果的にミカサが幸せだったのか、あるいは不幸な決断だったのかを考えるつもりはない。ここで考えたいのは「ヴェーネ論」同様、彼女の置かれた状況をいったん整理することで見えてくるものを抽出したいといいうことだ。長い物語を終わらせるために、ある意味では利用された(もちろん最終的には彼女が主体的に行動したとは言え)彼女の立場や境遇といったものを考えることで、ミカサ・アッカーマンという一人のキャラクターの実存を掬い出すことができればと、ぼんやり考えているところである。

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