池田圭系がいい加減に考える

自然共育、苔や人の価値観に触れる事が好きな僕が様々な立場にいる人と対話し過去の自分とい…

池田圭系がいい加減に考える

自然共育、苔や人の価値観に触れる事が好きな僕が様々な立場にいる人と対話し過去の自分という”他人”や自然と向き合いながら、 今までに向き合わなかった文字といい加減に向き合う成長日記です。福岡県八女市出身。現在は西表島で苔をよく撮っています

最近の記事

心臓から花が咲くように、変形菌と旅をする

僕は山形の月山をとぼとぼ歩きながら 心臓から花が咲くような旅をしていた 変形菌とは不思議な子たちで「菌」と名前がついていますが、菌類の仲間ではありません。 そもそも人間がこの名前をつけたので、菌類と勘違いされる事に関して、この子たちに何の罪もありません(笑) 18世紀には菌類とともに「植物」に分類され、 19世紀には植物界でも動物界でもない「原生生物界」に、20世紀半ばになると「菌界」になりました。 しかし近年になって遺伝子の系統解析から「アメーバ動物Amoebozoa」

    • 高齢者の見せる身体性の発酵について考える〜屋久島の茶としみじみと向き合いながら〜

      高齢者の見せる美しさについてたまに考えることがある 今日は屋久島で出会ったお茶屋さんについて 指と追憶、つらつらと           白川茶園 屋久島 山の麓に降りる霜 険しい道のりを共に歩んだ 夫婦の手の平に見えるのは 高齢の美 屋久島の森に有機栽培で向かい合う 彼らの手には木のように 血まみれの優しさが刻まれている お茶としみじみと向かい合う 彼らの瞳に映るのは 子供のように春の風に芽吹く 若芽のような無垢ではなく 川の水流によってぶつかりながら 角が

      • そうだ、汽水との共在感覚を西表島を撮るテーマにしよう

        おそらく需要は自分にしかないと感じているが 1人で勝手にテーマを決めながら 西表島で写真を撮り続けるシリーズ 宇多田ヒカルさんの『PINK BLOOD』の歌詞が好きだ 誰にも見せなくてもキレイなものはキレイ、もう知っているから。誰にも聞かなくてもキレイなものはキレイ、もう言ってるから。 今まで西表島で1つのテーマで写真を撮ってきた 人間の悲観性と自然の湿度性の美を追っている 引き続き撮ろうと思う 湿度への憧憬 そして勝手に撮り続けるシリーズ第2弾 汽水との

        • 終わりゆく夏の青さと畏れを知る海人の手

          今日もよい1日だった ひんやりとした世界に 1つ1つの燃ゆる生命 その目は消えていくことを 知っているようで、生きてるなあ〜と思った なんとも自然な香り 海人のごつごつした身体に 1つ1つ宿る思いやり その手は大きな力には 逆らえないことを 知っているようで 生きてるなぁ〜と思った なんとも自然な香り 遊びにきてくれる友達が いれば充分すぎる幸せだ 言葉で探らなくていい 身体が教えてくれるから 美しいものは見せなくていい 勝手に溜めこんでくれるから 今年の夏の

        心臓から花が咲くように、変形菌と旅をする

          湿度への憧憬 西表島 夏淡水編

          写真という乾きの世界から湿度という潤いの世界を探す旅。 西表島に住んで約5ヶ月が経った 湿度の持つ美しさとは 湿度が育む人間性とは 悲観の育む精神性とは 自然を通した身体性の獲得とは 記憶の分解と醸成する身体性とは カメラという別の眼球と同化して 呼吸をするように瞬きをしたい そんなことを考えながら西表島に住む日々 未だに全く見たこともない生物と出会う さまざまな自然の姿を見るたびに 自然への畏怖の念を抱く 海水の世界の華やかな色に目を見開き 淡水

          湿度への憧憬 西表島 夏淡水編

          子どもの人権はいつも大人の匙加減

          夏休みとは休みだ 部活とは思い出だ 友達とは仲間だ 食べるとは身体だ 楽しむとは才能だ 喋るとは表現だ 感動とは感性だ 祝祭性とは心だ 悩むとは優しさだ 体験とは夢だ、経験とは術だ 遊ぶとは人生だ 大人が大人のままには不要不急でも、子供が大人になる為には必要である

          子どもの人権はいつも大人の匙加減

          夕凪のオーロラに身体を漂わせながら、醸成していく身体性について考えている

          どうしようもなく暑く眠れなかった朝が 渡り鳥のように大きな羽を広げて、高く 僕の知らないどこかの遠い世界へ旅立ってしまった 西表島の朝6時の海面は柔らかな陽を灯し、 朝の雫がそっと西表島の秋の始まり囁いている ほとんど紅葉が見られない西表島の秋の始まりは 心地よい朝の目覚めと渡鳥の旅立ちを惜しむ寂しさから 感じているのかもしれない そういえば 約1年前は京都で高齢者のリハビリを生業としていのだと思い出した 89歳の患者さんが七夕で短冊に願った 「死ぬまで

          夕凪のオーロラに身体を漂わせながら、醸成していく身体性について考えている

          レンズから覗く自然、身体で観じる自然〜八重山海編〜

          海の中って重力を無視した色鮮やかな景観が広がっていて、それに太陽の光が差し込むともうたまらない 海のさざなみと共に青色の世界もゆらぐ どうしようもないその美しさに海のゆるやかな流れに波布海月のように身をまかせてしまう 静かに動きを止めてその瞬間を眺めている もしかしたら生物としての 自分の呼吸を確かめたいのかもしれない 自分も西表島のイソギンチャクエビのように 海の一部になりたいと思ってしまうくらい しばらく海の時間にふける 地上では決して見ることのできない

          レンズから覗く自然、身体で観じる自然〜八重山海編〜

          ぼやけに湿度の美しさを探しながら大見謝を彷徨っている

          6月5日、お知らせがきた どうやらnoteを書き始めて1年が経ったらしい 1年前の僕はどこに在て、何を感じて、どんなことを考えていたのだろう そんなことが気になる6月5日の午前 約1年前京都の病院で働いていて そこで僕は思わず見惚れていたものがあったらしい それは89歳の女性が書いた短冊だ 死ぬまで生きる 「私達はたまに死にたいと思う。もう充分だと、この腰の激痛があるくらいなら死にたいと思うことがある。ただ災害やウイルスの危機で沢山の生きたい人が死んでいく。生

          ぼやけに湿度の美しさを探しながら大見謝を彷徨っている

          人工物と自然を眺めて身体を漂白していくということ

          西表島にあるウタラ炭鉱を歩いた ウタラ炭鉱の約80年前の歴史を知れば知るほど 今の感情とは再会できなくなると思うので つらつらと綴る 80年前の人の面影を辿ると なかなかの寂しさを感じてしまう 僕も人間なんだなと思う こんな人間らしさも大事にしよう 人工物を巻き込む自然を眺めていると 人工物も自然なんだなと感じる なるほどなるほど 不自然と自然 人工物と自然 この似ているようで似ていない2つの差異を少しずつ考えていきたい こんな思考が溶けていくよう

          人工物と自然を眺めて身体を漂白していくということ

          色のない湿度を苔の彩で感じて

          2020年6月から始まる予定だった 北海道での仕事がコロナでなくなり 「よし、苔好きやし湿度の高いところ行こう!」と 持ち前の動物的な衝動に身を任せて 石垣島に住み始め早8ヶ月。 パラレルワールドのような時間を過ごしている。 時には石垣島での仕事や人間関係に飲まれて 呼吸しづらくなるときもあるが 空いている時間は湿度の高い自然に赴き 深呼吸を忘れないようにしている        深呼吸には湿度が大切だ なにかに没頭したい人も肩の力を抜きたい人も 子供達

          色のない湿度を苔の彩で感じて

          朝日とハイビスカスとの霞む境界線に想いを馳せながら日常の美について考える

          今年の6月、僕は五輪関係で北海道に移住するはずの人生だった。 そんなはずだった今は石垣島に引っ越してきて、はや4ヶ月が経っている。 パラレルワールドのような人生をいかに埋没するか。 今朝、年の離れた親子が一緒に薪を運んでいた。 「昨日は何して遊んだの?」 そんな無目的な問いかけに人間性の心地よい秋風を感じるし 猫が朝日に向かって気持ち良さそうに座っていることに共感するし カエルが奏でる音楽の個性に「それは好みではないな〜」「今のはちょっと惹かれた。。」とか相手は僕では

          朝日とハイビスカスとの霞む境界線に想いを馳せながら日常の美について考える

          古見のサガリバナを眺めながら、他者(異文化)を理解するために素足で歩くような感覚(共在感覚)の必要性について考える

          先日3日間西表島に籠ってみた。この感触を忘れたくないので未来の自分用に綴ろうと思う。 „他者(異文化)を理解するためには靴は履いてもいい、ただし素足で歩くような感覚を忘れてはならい“靴を履いていないと自分が傷ついてしまう時がある。ただし他者(異文化)を理解するためには素足でしか感じることのできる複雑な情報を感じる必要がある。これは靴を履いたままでは感じる事はできない。そして知らず知らずのうちに靴で生き物を踏み潰したり、土を固めて植物が生えない環境を作ってしまう事がある。いか

          古見のサガリバナを眺めながら、他者(異文化)を理解するために素足で歩くような感覚(共在感覚)の必要性について考える

          「教育者は爪痕を残さないのであればいる意味がない」と語る狂育者の眼球はいったい誰を見ているのだろうか

          石垣島に住み始めて3ヶ月が経った。 11月の早朝でも蝉たちが求婚を始め、ひまわりは太陽の陽射しに彩りを添えている。夜には家の周りを2匹、3匹、微かな光が漂う。確かに暑い日は減っているが、石垣島の葉が紅く染まることはない。 風情はあるが季節性はない。不思議な感覚だ。 ただウデナガカクレダコ(うずむなー)や甲羅が青灰色に染まるミナミコメツキガニ達がこの時期は確認できる。おそらく石垣島の人達は福岡で生まれ育った僕とは季節性の感じ方が違うのだろう。 僕は自然を通して人間がどこま

          「教育者は爪痕を残さないのであればいる意味がない」と語る狂育者の眼球はいったい誰を見ているのだろうか

          山頂の複雑な音楽と八女茶を味わいながら無目的に朝日と、自分と対話する。

          今日はお茶を飲もう 僕は月がまだ山の輪郭をなぞる頃、野底マーペーを登り始めた。 山頂に着くとリュックの中から急須を取り出して八女産の茶葉をちょこっと、お水とこおりを入れて20分ほど待つ。茶葉がゆったりと花開くのを眺める時間は、自然の流れを早送りで見ているようで多幸感に包まれる 山頂では素直な風が何にも邪魔されることなく自由に舞っている。そして少し黄色味を帯びた草木達も風に添って肩を揺らし、秋の始まりをささやいている。 どうやら野鳥達も起きたようだ。 そんな複雑な音楽

          山頂の複雑な音楽と八女茶を味わいながら無目的に朝日と、自分と対話する。

          平久保崎灯台の黒に彩りを感じて

          さて、この黒をどう感じようか そうだ、目をつぶってみよう 散歩しているときに島の風景が音楽に彩りを添えるように。 目を閉じてみると耳で聴く黒、鼻で嗅ぐ黒、皮膚に溶け込む黒。 僕の身体が黒に彩りを添える。 #黒に彩りを感じて#石垣島

          平久保崎灯台の黒に彩りを感じて