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若者への怒り-怠惰と怯懦

救いのない、暗い話だ。


お説教

むかし、大学で教鞭をとっていたとき、稀にではあるが、学生に対して激しい怒りを感じたことがある。
もちろん叱った。
冷静に、なぜ私がかくも激しい怒りの念を抱いているのかを説明した。

「お説教」と、自分では呼んでいた。
お説教をする前日には、数時間かけて、話す内容と話す順序をメモした。

読書感想文

その年も、アゴタ・クリストフ『悪童日記』を数週間かけて様々なアプローチで分析したあと、最後の仕上げとして各学生に読書感想文を提出させるという、例年と同様のプログラムをおこなった。

さて翌週は各学生が読書感想文を提出するという回の授業で、たまたまその日の学生の発表が面白かったので、私は嬉しくなって、私自身の『悪童日記』についての想いをかなり長い時間をかけて話した。

一週間後、提出された読書感想文を読んで、私は愕然とした。
大半の学生が、私が先週の授業中にした話を、そのまま書いて、提出してきたのだ。
私は怒った。

授業中に私がした話は、私の感想に過ぎない。
なぜそれがあなたの感想になるのか。あなたと私は別の人間である。
なぜあなた自身の感想を書かなければならない課題で、私の感想を書いて提出したのか。
異常である。

怠惰と怯懦

私は怒った。
と同時に、私は学生たちの思考を類推することを余儀なくされた。
なぜこんなマネをしたのか、それを合理的に推理して、そこから指導へと結び付けなければならなかった。

ふたつの理由を想定できた。
ひとつが怠惰だ。自分で考えるのが面倒くさいから、先生の話をそのまま書いたー。

もうひとつが怯懦だ。もしも自分自身の感想を書いたら、先生から低い評価を与えられるかもしれない。先生の感想をそのまま書いておけば、少なくともさほど低い評価にはならないはず-、そういう計算が働いた可能性があった。
つまり低い評価を与えられるかもしれないという怯えが、私の感想を剽窃した理由だと考えられた。
つまり問題の根底にあるのは怯懦だ。つまり勇気の欠如だ。

心が問題

怠惰で卑怯な学生たちは、点数が欲しいから、勉強(=自分で考えて自分の感想を書くこと)を放棄した。
つまり点数が欲しいから、勉強をしなかった
「自分で考えること」よりも、点数を優先させるのは、知性に対する冒涜である。
私は許せなかった。

しかし私は学生を軽蔑したくはなかった。
それに教育の力を信じたかった。
だからお説教をした。
上記の内容を、静かに、とても静かに、深い憤りとともに語った。

そもそも怠惰も怯懦も、心の問題だ。頭の良し悪しの問題ではない。
教師なのだから、悪い頭を良くする用意はできている。とはいえ、まさか歪んだ心を矯正することまでも求められるとは。
仕方がない。それが私の仕事なら、するまでだ。好き嫌いは言うまい。そう思って、お説教をした。

忘れない

あのときの怒り、もうずいぶん経ったのに、未だに忘れられない。
根に持っているわけではない。
ただ小中高で、あるいは家庭で、なぜ怠惰や怯懦は悪いことだと、勤勉と勇気こそが良いことだと、大人は教えてこなかったのか。
私はnoteで多くの教員たちや親御さんたちの記事を拝読させていただいている。
ひとつだけお願いがあるとするならば、どうか18歳までに、市民=人間として最低限の心の教育はすませておいてほしい。

心の歪んだ若者に対して怒ることは間違えてはいないはずだ。

「俺は若い奴が嫌いだ」、鶴田浩二は言った。

しかし若者に向かって怒るとは、若者(=未来)に正義の実現を求めることである。
別言すれば、それは自分自身の力だけでは正義を実現できないと、自分自身の無力さを告白することでもある。それゆえ若者への怒りは自己嫌悪を伴う。
けれども自己嫌悪にもかかわらずお説教をするのが、大人だとも思う。
それが大人に「渋さ」を与えるのだろう。

とはいえ、最近は、若者に向かって怒らない、若い先生がたも増えたようだ。
心の問題を扱うことのめんどうくささ、そしてハラスメントだと訴えられることへの怯え、それらが教師を真の教育から遠ざけている。
かくして教師の怠惰と怯懦が、若者の怠惰と怯懦を保護している。

実を言えば、私もトシのせいだろうか、心のなかに徐々に諦めや絶望が影を落とし始めてきているのを自覚する。
憂鬱だ。
外は春なのかもしれないが、私はさむい。

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