見出し画像

❖読書:カラマーゾフの兄弟

「地下室の手記」について投稿した者として、この作品のことはコメントせざるを得ない。
先日も書いたことだが、ドストエフスキーを読んだのは高校生の時、それがカラマーゾフの兄弟だった。当然、さっぱりわからなかった。
それもこの物語は全体の前編にあたるのだ。
残念ながら後編を書く前にドストエフスキーが亡くなってしまったので、その後の物語は誰もわからない。

そもそも、ドストエフスキーの作品を理解するには、彼自身の生い立ちと歴史を知らないと理解できないということに気付くには時間を要するということなのだろう。
正直、そこまでトラップを掛けられると読者はその作品を放棄してしまうかもしれない。それぐらい、ややこしい。それも名前が。愛称って何???
日本人にとっては名前など、ただの登場人物だろうと思ってしまうが、そこに様々な関係性があるだけに理解に苦しむ。

この物語のことを詳細に述べるつもりはないが、ドス様(ドストエフスキーには失礼だが)を理解するにはこの作品を避けることはできない。
彼の生い立ち・歴史を知れば知るほど、納得感というか読み取り感というかを感じてしまう。ドス様の作品って、こうなんだ。

わかりずらい作品だけに読み応えがある。
その感情って・・・私と同じかも・・・それを感じられるのが文学だろう。
登場人物になりきって、それを変えながら読むと薄っすらだが違う側面が見えてくるのが面白い。
高校⇒大学⇒社会人、何度も読んだがドス様が何を言いたいのか薄っすらにでも理解し始めたのは社会人になってからだ。

しかしながら、キリスト教を理解できていないだけに一部分ではあるが物語が理解できない部分がある。「彼」とは「キリスト」なのか、そうではないのか。よくわからない。
いずれにしても日本人には理解に苦しむ部分だ。
正直、わからないので・・・飛ばす。しかないのだ。

未必の故意は罪なのか?
日常のやり取りから、このようになってくれればいいと考えてしまうのは人間だから仕方のないことなのだろうが、それが犯罪に関係していると簡単には行かなくなる。それも殺人、父親殺しとなると感情は縺れまくるのだ。
そこに加えて女性問題が関係してくるとどうなるのか、わからない。

様々な感情、人間関係、親子関係、男女関係、愛、憎しみ、怒り、快楽、勝手な解釈、死の意味等々、キーワードを列記しだすと切が無いが実はそれって人間の社会で常に存在していることなのだ。
人間は苦しみながら何を生み出すのか?
様々な揺さ振りを受けながら、読者は自分自身のあり方を考えるのだろう。
これはドス様の罠なのかもしれない。
人間、生きているなら、もっと・・・苦しめ・・・と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?