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名前を明かすこと

あっ、筆箱忘れた。

教室でいつも座っている窓際の一番後ろの席に着き、リュックサックの中から使うものを取り出そうとして初めて気が付いた。

字が書けるようになってからというもの、どこへ行くにもペンと紙だけは鞄に入れて持ち歩いていた。絵を描くのも好きだったし、文章を書き始めてからは筆箱を丸ごと持ち歩くようになっていた。それにもし筆箱を忘れても、大体荷物の中にはペンが一本くらいは常に入っていた。

だけど昨日はたまたまリュックの中に書くものが入っておらず、ポーチの中にもリップやボディミストしか入っていなかった。
今から授業なのに、前期最後の授業で、期末課題の説明もされるはずなのに、と焦った。リップで書こうかと思ったけれど、うーんそれは流石にちょっと…と思ったりもした。

だから思い切って声をかけた。前の席の男の子にだ。

この授業は私が昨年気持ちが沈みがちになっていたとき、不登校気味になって取り損なった授業で、加えて基本的には私の所属している学部の1回生が取る授業だった。だから2回生である私の友人たちも昨年この授業の単位をみんな取得しており、教室内にいる30〜40人の生徒たちのほとんどは1回生の知らない子たちだった。

しかし、前の席の男の子とはこの授業を通じて顔見知りになっていた。毎回、といっても全14回ある授業の半分を過ぎたころからだろうか、教室へ入ると彼は私を認識し次第、いつも会釈をしてくれた。私が先に教室に入っていたときも、目を合わせてぺこりとお辞儀をするようにしていた。私は一番後ろの窓際の席に座り、彼はいつも私の前の席に座った。一度だけ、私が彼の前に座っていたとき、彼が携帯電話を落としたのを拾ってあげたことがあったけど、関わりはその程度だった。

しかも、こちらが彼は1回生だろうな、ということをなんとなく推測できているのに対し、彼はまだ入学したてなので私が2回生だとは分かっていないに違いない。何しろ1回生の多い授業だし、私は小柄な上顔も幼く見られがちで、きっと同い年だと思われているのだろうなと思って、それが少し可笑しかった。

昨日の朝は彼が先に席についており、私が教室の後ろの入り口から教室内へ入ると会釈をしてくれた。それを見て会釈をし返し席に着いた後に、筆箱を忘れてしまったことに気づいたのだった。

他に頼める相手がいなかったし、幸い彼は私の目の前に座っているので声が届く。ちゃんと話したことはないけど、隣の席に座る友人と話しているのを何度も見ていて、優しそうな人だなあと思っていた。

だから勇気を出してそっと声をかけた。

「あの、すみません。ペンを持っていますか」

そう言うとすぐに振り向いてくれた。ただ、何を言っているのか聞こえなかったらしく、「はい?」と聞き返された。私はもう一度同じことを言った。

「ペンを何本か持っていますか?」

「はい?」

再び聞き返されて、ああ、趣旨が伝わりにくい切り出し方をしてしまった、と思った。そんな、ペンを持ってるかどうかなんてこと聞かれても困るのは当然だと思い、すぐに直接的な言葉に変えた。

「あの、今日筆箱を忘れてしまって、もしよかったらペンを貸してほしいんです...」

私が言葉を言い切る前に彼はさっと自分の筆箱を手に取り、チャックを開けると、私にシャーペンを差し出してくれた。とても親切な人だなと思った。ちらっと筆箱の中を確認すると、他にも何本かペンが入っていたので安心した。私がペンを取ってしまって彼がメモをできないということはない。

「ありがとうございます!すごく助かります、本当に」

初めて言葉で話しかけたのに、すぐに反応してペンを貸してくれたことが嬉しかったので、私は何度もお礼を言った。しかし、彼の優しさはこれだけでは終わらなかった。「あっ、待ってくださいね」と言うと、すぐに筆箱からシャーペンの芯が入っている入れ物を私に差し出してきた。

「これ一応、無くなったらあれなんで」

「えっ」

びっくりした。ペンを貸してほしいと言っただけなのに、ここまで丁寧な対応をされたのは初めてだったからだ。まさか芯が無くなった場合の心配までしてくれるなんて信じられなかったが、そのあとすぐに彼はまた私の机の上に何か乗せてきた。手がどけられてから見ると、3色ボールペンと小さな消しゴムのかけらだった。

「えっ?」

「これもどうぞ」

「いいんですか?」

「はい、どうぞどうぞ」

そう言うと彼は控えめに、にこっと笑った。マスクをしているので口元は分からなかったけれど、目元は柔らかかった。

しばらくして授業は始まり、私は先生の話を聞きながらメモを取ったり、ワークシートへ記述をしたりした。シャーペンの芯は途中で切れたりしなかったけど、消しゴムは何度も使わせてもらった。その度にありがたいなあと思ってとても嬉しくなった。これがなければ私はこそこそ携帯を使ってメモをとり、先生に注意されていたかもしれなかった。

そして100分ほどの講義が終わってから、彼に借りていたものを返すために背中をとんとんと叩いた。

何かお菓子みたいにあげられるものがリュックの中に入っていたらよかったのだけど、あいにくあげられそうなものは何も入っていなかった。

だから振り向いた彼に向かって「本当に助かりました、ありがとう」とたくさんお礼を言って、筆記用具たちを返した。

そして「1回生の方ですか?」と私から尋ねた。きちんと認識しておきたかった。学年が違うからあまり会うことはないだろうけど、同じ学部ならまたどこかで見かけることがあるかもしれないと思ったからだ。

「はい、1回生です」

「そうですか。私は2回生なんです」

「2回生なんですね」

彼はへぇ…と言った顔をしながらそのあとすぐに、

「俺は、〇〇〇〇と言います」

と私に対して名乗った。そこでまた驚いた。私から名乗ろうと思っていたからだ。しかも、名乗る流れになっても、相手から「お名前は?」と聞かれるかと思った。私はいつも先に名乗らず、相手に尋ねてから名乗ってばかりだった。

しかし彼は自分から名乗った。紳士だなあと思った。

誰かに自分の名前を明かすということは、神聖な行為だと思う。特に、クラスや何かの集まりで「自己紹介をしてください」と言われて名乗るような、やや強制されたものでない限り、その必要がなければ自分の名など明かさなくてもよいと思うからだ。

しかし彼は極めて自然に、すっと自分の名を私に明かした。彼は私に自分の名をくれたのだ。今日初めて話した相手なのに、そして今日を機に来週からはもう会うこともないかもしれないのに。

「〇〇くんか…。私は、●●●●です」

だから私も彼に名を明かした。彼は「●●さん...」と私の名を繰り返して呟いた。この人の名をできるだけ覚えておこう、という静かな意思をそこに感じた。私も同じことをしていたからそれが分かった。

「また会うことがあるかもしれないので、そのときはよろしくお願いします」

私は嬉しくてにっこり笑い、そう言ってから荷物を手に取り会釈した。彼も「はい」と頷いてにこっと笑い、会釈してくれた。もう一度お礼を言ってから、私はその教室を後にした。

連絡先を交換するとか、あるいはお礼だけ言って知らんぷりでそのまま帰るとか、そういう行き過ぎた(あるいは不足した)やりとりではなく、ただ名乗ってその場を後にするというのは非常に心地よく、自然な気がした。一言かければLINEを教えてくれただろう。そうすれば仲良くなれて、年の違う友人を互いに得られたかもしれない。あるいはお礼だけ言ってそのまま帰れば、私たちは互いの名前など知らないまま、別の場所で会ってもよそよそしい態度を取るような関係性になっていたかもしれない。

でも名前を明かすということはほどほどに特別だ。この世界での自分の呼び名を相手に教え、贈るということだから。私たちはきっと、次に会ったときには「お久しぶりです」と言いあって会話を始めるだろう。そのまま関係性を紡ぐかどうかはその時にまた考えて決めればいい。そういうささやかな決定権を、名乗ることで私たちは手にしたのだ。

だから昨日はとても心がふわふわしていた。
このような優しい自己紹介は初めてだったな、と思う。ほどよい緊張感と、ほどよい安心感があって、ほどよい距離感と、ささやかな決定権が後に残っている。

とても理想的な自己紹介の時間だった。

そしてもうひとつ言うならば、私は彼のように親切な、それこそ「シャーペンを貸して」と言われただけなのに、消しゴムや色ペンまで貸してしまうような人物になりたい。さらに言えば仲良くなりたいと思った人には自分から進んで名乗るような、真摯な人物になりたいと、そう強く思った。

またどこかでぜひ会いましょう。
そしてそのときはきっと、友人になりましょう。



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