救命と延命の境界
救命と延命。よく似た言葉に見えますが、中身は全く違います。しかし医学が発展するほどに、救命と延命の境界は難しくなっていきます。
両者は様々な場面で使われる言葉で、意味の混同や拡大解釈もみられ、医療者にとっても混沌とした領域です。言葉の定義を簡潔に述べるなら、
「生命の危機に瀕している状況で」
①「救命」は助かる見込みのある医療行為
②「延命」は助かる見込みのない医療行為
と考えます。いずれも命を保つために、あるいは命を呼び戻すために、最新の医療技術、機械などを投入します。心臓や呼吸が止まった時の「胸骨圧迫(心臓マッサージ)」「人工呼吸(或いは人工呼吸器)」、致死性不整脈が出ているときの「除細動(電気ショック)」から、自分の肺や心臓で命を保てないときの「人工肺と体外循環路(ECMO)」、今では一般的になってきましたが自分の腎臓で命を保てないときの「人工腎臓(維持透析)」など。使用可能期間や条件には厳しい制約があるものの、今や機械によって「腎臓」「肺」「心臓」を代替しうる医療技術があります。「人工膵臓」などの臨床応用も進められていますし、近年の医学の発展は目覚ましいものです。
すると、ひとつ疑問が生まれます。
どこまでが救命で、どこからが延命なのか。
例えば人工透析が実用化されて間もない頃は、これを行うには多額の費用がかかり、「透析患者になるとその家も親戚も全ての財産を失う」と言われたこともありました。今では日本の社会保障制度によって、そんなことにはなりませんが(費用がかからなくなったわけではありません。ひとりの人間を人工透析によって生存させるためには、どうしても技術的に莫大なコストがかかります。それを日本国民が全員で負担を分配しているだけです。)、当時は「それは延命だから」といって、透析を導入しない人も相当いたと聞きます。友人の腎臓内科医に聞いたところ、現在の日本では余程の理由がない限り、かなり高齢の方であっても、人工透析の導入を試みることが多いそうです(これはこれで非常に大きな問題です。また逆に、腎不全なのに医師側から透析を勧められなかったら、それは医学的に「余程の理由」があるということですから、真剣に受け止めなければなりません)。
どこまでが救命で、どこからが延命なのか。
私の敬愛する救急集中治療医のG先生は、豊富な人生経験と特殊な訓練の賜物として、数々の名言を繰り出してきます。先日「救命と延命の違い」についてお考えを伺う機会がありました。
これはすごいことを聞きました。
直後に「あれ?もしかして俺、今けっこう良いこと言った?これ何処かで使おうかなぁ…」なんて仰ってましたから、そんな喩えを繰り出してくる人がいたら、それは私の敬愛するG先生かもしれません。
救命と延命、両者は明確に区別できるものではありません。
その局面に出会う度に悩み、相談し、ひとつずつ意思決定していくしかない領域なのだと思います。
人類は幾つかの「不治の病」を克服してきました。
例えば「結核」は1943年までは非常に高い致死率を有する「不治の病」でした。この年に「ストレプトマイシン」という抗結核薬が開発されたことを皮切りに、複数の抗結核薬が次々と開発され、治療方法が確立し、現在では適切な管理と最適な治療が行われれば、かなりの割合で治癒しうる疾患になりました。
例えば「HIV感染者」の寿命は、AIDS発症前に診断され適切な管理の下に治療を継続すれば、非感染者とほぼ同等になったという話もあります。
救命と延命の境界は、時代とともに変わっていくのだと思います。そして、私たちはその過渡期にいます。
私の命の太陽は、今どれくらいの高さにあるでしょうか。
貴方の空は、どうですか。
私は夕焼けに染まり影が伸びる世界でも、最期まで遊んでいたいと思います。日が暮れるその瞬間まで遊び尽くして、夜になったら何処かへ還ります。でも、もし二度と動けないような状態だったら、日の暮れる前に目を閉じようと思います。
拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、貴方の太陽が高く高く光を放ち、幸せの中で笑顔に包まれますように。
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