運と縁と恩の話
「インド人に先を越されてね。それで私は学位が取れなかった。あのインド人め〜…って今でも思うことがあるよ。」
先生は院生時代を懐かしむように当時のことを教えてくれました。研究成果を論文化して投稿する段階になって、同じテーマの研究が先に雑誌に載ってしまったために、先生の研究が世に出ることは叶わなかったそうです。
彼女は中学3年のクラス担任で、『あずまんが大王』の水原暦に激似でしたから、ここでは敬意を込めて「よみ先生」と呼びましょう。
よみ先生は真面目で生徒思いで優しくて、同僚や上司から仕事を押しつけられ易くて、多分ちょっぴり運の悪い女性でした。そして私の無謀な進路希望を、唯一応援してくれた人でした。
私はよみ先生のことが大好きでした。
そこは辺境の地にある不良中学で、高校進学率もそれほど高くはありません。窓ガラスが割られたり教師が流血したりする環境でしたから、思い返しても癖の強いクラスメイトたちの担任を務めることは想像を超える苦労があったことでしょう。時には生徒とぶつかることもあり、しかしそれは誰よりも生徒を一人の人間として見て向き合っていたからだと分かりました。
よみ先生と対照的な教師が同じ学年に居りました。彼は外見も態度も恐ろしい体育教師の化身のような人でした。竹刀こそ携帯していませんでしたが、気迫や怒号は不良中学生たちを制御するのに最適でした。岩のように不動の精神が見えましたから、イワ先生と呼びましょう。
イワ先生は仕事とプライベートの棲み分けが上手な人でした。自分のことを多く語らず、生徒と一定の距離感を保ち、厳しい生活指導をしながらも決して保護者との問題を起こさない優れた立ち回りをする先生です。いわゆる要領の良いタイプで、それは私にとって学ぶべき性質のように思われました。
私は幾度かイワ先生がよみ先生に面倒臭そうな仕事を投げているのを見掛けました。直接の上司でなくとも年齢的に、あるいは性格的に断りづらかったのでしょう。地味で数字にならないような、しかし手間のかかる仕事でした。
よみ先生は生徒会担当もしていました。私は生徒会長でしたから、自然と先生と話す機会も多かったように思います。数字にも記録にもならない彼女の功績の幾つかを、私は記憶しています。あの時、よみ先生が担任でなければ今の私は存在し得なかったろうと振り返ります。
たった一年間。然れど一年間。
人の世の縁とは奇妙なのもので、心を澄ませておくと必要なときに必要な分だけ、誰かとの交流が生まれます。自分の軸を決めておくと、あとは自ずと定まります。然らば瑣末なことに囚われずに大局をつかむことが出来るでしょう。
先日旧友と偶然の再会を果たしました。それで人生に幾つかある分岐点のひとつに、よみ先生がいたことを思い出して、手紙を書こうにも住所を知りませんでしたから、こうして執筆した次第です。
拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、ジブリパークのチケットが当たりますように。
#忘れられない先生
#理科がすき #眼鏡 #学生時代に眼鏡屋でバイト
#イマジナリージジ #鴨の宅急便
#そうです私はあの時助けていただいた鴨です
#恩返しによく分からない記事を書きました
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