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『平等とは』

(以下はヴォルテールの『哲学辞典』に含まれる『平等』の段の私訳である。「平等」の理念は言うまでもなく近代社会を支える柱のひとつであり、現代の日本人であれば誰でも子供の頃から耳にタコができるほど聞かされている言葉である。しかしながら、「それではそもそも『平等』とは何なのか」という根本的な問いを提出してみれば、返ってくる答えは百人百様で、明確な合意が形成されないまま乱雑な議論が続いてしまうことも少なくない。そこでここでは原点に返って一から考え直すためにも、革命前の十八世紀にまで遡って、「そもそもヴォルテールは何と言っていたのか」ということを確認してみたいと思う。)
 

平等とは
ÉGALITÉ
Extrait du Dictionnaire philosophique

ヴォルテール
Voltaire

伯井誠司 訳


 犬は他の犬に何の借りがあるだろう? 馬は他の馬に何の借りが? 何も。動物は他に従属などしない。しかし人間が理性という神の光を受け取った結果、どうなっただろう? 全世界が奴隷だらけになったのだ。
 もしこの世界がしかるべきものであったならば、つまりどこでも簡単確実に生活の糧が得られ、どこでもほどよい気候であったならば、誰かが誰かの奴隷になるなどということはあり得なかっただろう。もし栄養満点の果物が地表を覆いつくしていたら、もしわれわれの呼吸する空気が病気や死を一切与えなかったら、もし人も鹿のように寝起きするだけで充分で、家やベッドなど何も必要としなかったら...... もしそうであったならば、チンギス・ハーンもティムールもただ自分たちの子供だけを召使いにしてほかに誰も必要とせず、その子供もかれらが年を取ったら面倒を見てくれるような実直な子供になっていただろう。
 そんな自然の状態においてならば、人間も四つ足の獣や鳥、爬虫類と同じくらい幸せだったはずだ。支配などという概念は単なる空想で、そんな馬鹿げたこと誰も考えもしなかっただろう。言いつける用事もないような世界で、誰が召使いを必要とする?
 もし誰か横暴で腕力もある者の心に「自分より弱い隣人を奴隷にしよう」という考えがよぎったとしても、そんなことは不可能だっただろう。迫害する側が迫害の計画を練っている間に、迫害される側は百里先へ去ってしまっていただろうからだ。
 そんなわけで、もし誰の必要もみな満たされていれば、みな必然的に平等となる。われわれ人類に付き纏う困窮こそが人を他に隷属させるのだ。不平等が不幸を生むのではなく、他者への従属が生むのである。それが陛下だろうが猊下だろうがほとんど関係ない。とかく人に仕えるのは何でも大変なのだ。
 ある大家族が豊かな土地を持っていて、それを耕したとする。隣には二世帯の小さな家族が住んでいて、かれらの土地は荒れて手が付けられない。するとこの二つの家族は、裕福な大家族のもとに仕えるか、あるいは大家族を惨殺するしかない(それは別に難しいことでもない)。さて、二つの貧しい家族のうちの片方はパンを貰うために裕福な家族へ労働力を提供することにした。もう片方は裕福な家族を襲撃し、逆に撃退されてしまった。労働力を提供した方の家族が使用人や労働者の祖であり、襲撃して負けた方の家族は奴隷の祖である。
 この惨めな地上においては、社会に生きる人々は二つの階級に分かれざるを得ないのだ。それはすなわち、人に命令を下す富裕層と、人の命令に従う貧困層である。さらにその富裕層と貧困層の中にもそれぞれ千の細かい区分があり、そのひとつひとつに微妙な違いがある。
 貧しい人々がみな絶対的に不幸というわけではない。大方は生まれつきそうした境遇の中にいて、弛まぬ労働によって自分たちの置かれている状況に自覚的になりすぎることを妨げられている。ただし、かれらが自分たちの状況に気が付いた場合は、戦争が起こる。人民党がローマの元老院に反逆した時も然り、ドイツで農民が反乱した時も然り、イギリスでもフランスでも同様。どの戦争も遅かれ早かれ人民の奴隷化によって終結する。強者は金を持っていて、金は国家のあるじだからである。ただこれは一つの国家内での話であり、国家間の関係には当てはまらない。武力を最大限に行使する国は常に、金貨はたくさん持っているが勇気は少ししか持っていない国を征服するだろう。
 人は誰しも権力と富と快楽への激しい欲求を持って生まれて来、しかも怠けることは大好きだ。したがって、誰しも富を、女を、他人の娘を手に入れ、ご主人様になり、何でも自分の思うがままにし、楽しいこと以外は何もしたくないと思うものだ。こんな結構な傾向があることを思えば、人間がみな平等になるなどというのは説教師や神学部の教授たちがお互いに何の嫉妬もしないのと同じくらい不可能だということがおわかりいただけるだろう。
 そういうわけで人類は、何も所有しない有能な人々が無限に存在しないかぎり、うまくやってゆけないのだ。安楽な暮らしをしている者が自分の土地を捨ててきみのところへ働きに来るなどということはまず無い。そして、一足の靴が必要な時にそれを作ってくれるのは国務院の調査官ではない。だから平等とは極めて自然なものであると同時に、極めて非現実的でもあるのだ。
 人はいつでもやれることはやりすぎるまでやるので、この不平等も極限までいってしまった。多くの国では、偶然そこに生まれついただけなのにも拘らず、国から出てゆくことを市民に禁止している。この法律の意味するところは明確である:「この国はあまりにも悪く、行政もあまりにもひどいので、何人たりとも出国することを禁ずる。全員出て行くことになってしまったら大変だからである。」むしろ国民はいつまでもずっと住んでいたいと、外国人は来てみたいと思えるような国にしたまえ。その方がよい。
 誰にもみな、心の底で「自分は他の人間と対等だ」と信じる権利がある。それは枢機卿のお付きの料理人が枢機卿に料理を作るように命令できるようになるという意味ではない。ただその料理人は「俺も御主人様も同じ人間だ。俺も御主人様も同じように泣いて生まれて来たんだ。御主人様だって俺と同じように死ぬときは怖いんだし、死んだら同じように葬式をするんだ。俺たちは二人とも同じ動物として身体を動かしている。もしトルコがローマを占領したら、俺が枢機卿に、枢機卿が俺の料理人になって、俺の方が料理を注文できるようになるかもしれないぞ」と言うことはできる。しかしそうやってトルコ軍がローマを占領してくれるのを待っている間にも、かれはしっかりと自分の仕事をやらなければならない。そうでなければ、この世の中は滅茶苦茶になってしまうのだから。
 枢機卿のお付きの料理人でもなく、何かほかの公的な仕事に就いているわけでもなく、何のしがらみもなく、ただ行く先々で支援されたり軽蔑されたりする度に申し訳なく思い、それでいて自分はその辺の神父たちよりも物知りで、頭もよく、道徳的だと信じて疑わず、しょっちゅう教会の控えの間で退屈しているような人物について言えば、かれがやるべきことはただひとつである。さっさと出てゆくことだ。
 
底本
Voltaire. Dictionnaire philosophique. Paris: Gallimard, 1994, p. 239-242.