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詩とは何か(単純で確実な答え)

 自由詩ほど愚劣にして意味のない文学は宇宙にないのだ。
 要するに今日の所謂自由詩は、真に詩と言わるべきものでなくして、没音律の散文が行別けの外観でごまかしてるところの、一のニセモノの文学であり、食わせものの似而非韻文である。著者はあえて大胆に、正直に、公明正大に——著者自身を含めて——断言しよう。今日ある如き所謂自由詩は詩としての第一条件を欠いている駄文学で、時の速い流れと共に、完全に抹殺さるべきものであると。

萩原朔太郎『詩の原理』1928年

「詩とは何か」という問いが、あたかも永遠に答えの出ない神秘であるかのように扱われているのは全く馬鹿馬鹿しいことです。なぜなら、それには完全に正しく、単純で確実な回答があるからです。それは「詩とは韻文の芸術である」という回答です。
 では韻文とは何でしょうか。光を定義するのに影と対比させるとわかりやすいように、韻文という言葉を定義する際にもその対義語を出すとわかりやすいかもしれません。「韻文」の対義語は「散文」です。
 では韻文と散文を分けるものは一体何でしょうか。それは韻律です。光の無いところが影になるように、韻律の無い文は散文になります。つまり、韻律を持つものが詩であり、持たないものが散文ということです。
 それでは、この韻律というものは一体何なのでしょうか。韻律とは、音節に基づいて言葉の並び方を定める規則のことです。英語ではMetre/Meter、仏語ではMètreなどと言い、要はメートルと同じ言葉です。注意が必要なのは、「韻律」という字面の紛らわしさからこれを押韻構成のことだと勘違いしてしまう方もいるようですが、狭義の韻律とはあくまでも音節の並びを定める規則のことを指し、押韻を意味しないということです。そのため、ホメロスやウェルギリウス、ミルトンなどの叙事詩はみな無韻ですが古典的な韻文に分類され、逆にT. S. エリオットのThe Love Song of J. Alfred Prufrockのように随所で韻を踏んでいながらも一定の規則に基づかず書かれた作品は、不規則な韻律を持つ前衛作品ということになります。(同時期に美術界でデュシャンやピカソ、音楽界でシェーンベルクやヴェーベルンなどが起こしていたのと同じ現象が詩の世界にも起きていたと考えるとイメージしやすいと思います。要は、韻律の無い詩とは調性の無い音楽のようなものなのです。)
 さて、「音節の並びを定める規則」などと言うだけではわかりにくいと思うので、それでは実際に韻律にはどのような種類があるのかを見てみましょう。まずはわかりやすい例ということで、シェイクスピアのソネットをあげます。

Let me confess that we two must be twain,
Although our undivided loves are one:
So shall those blots that do with me remain,
Without thy help, by me be borne alone.

 ソネット集の36番の初めの四行ですが、韻律がわかりやすいように音節ごとに区切ってみます。

Let / me / con/fess / that / we / two / must / be / twain,
Al/though / our / un/di/vi/ded / loves / are / one:
So / shall / those / blots / that / do / with / me / re/main,
With/out / thy / help, / by / me / be / borne / a/lone.

 区切られている部分を数えていただければわかるように、すべての行が十音節からなっています。またこれらの音節は基本的に弱音と強音が交互になるように配置されており、弱音と強音を合わせて「歩」と数えるので、日本語では一般に弱強五歩格と言います。(英語ではiambic pentameter。)これが英語における最も王道の韻律です。
 一応、シェイクスピアだけだと面白くないので、同じ韻律で書かれている詩行の例を他にも少し上げます。

In / these / deep / so/li/tudes / and / aw/ful / cells,
Where / heav'n/ly-/pen/sive / con/tem/pla/tion / dwells,
And / e/ver-/mu/sing / me/lan/cho/ly / reigns;
What / means / this / tu/mult / in / a / ves/tal's / veins?
──アリグザーンダ・ポープ、Eloisa to Abelard, 18世紀

I / work / all / day, / and / get / half-/drunk / at / night.
Wa/king / at / four / to / sound/less / dark, / I / stare.
In / time / the / cur/tain-/e/dges / will / grow / light.
──フィリップ・ラーキン、Aubade, 20世紀

 英語には他にもいろいろな韻律がありますが、特に有名なものはバラッドでしょうか。バラッドというと今では何か恋愛の歌の曲名などに無駄に使われる印象がありますが、本来は詩の形式であり、主に弱強四歩格(8音節)の行と弱強三歩格(6音節)の行の組み合わせで作られます。これも例をあげてみます。

The / king / sits / in / Dum/fer/ling / toune,
 Drin/king / the / blude/reid / wine:
‘O / whar / will / I / get / guid / sai/lor,
 To / sail / this / schip / of / mine?’
──作者不明、Sir Patrick Spens
 
Strange / fits / of / pa/ssion / have / I / known:
 And / I / will / dare / to / tell,
But / in / the / lo/ver's / ear / a/lone,
 What / once / to / me / be/fell.
──ウィリアム・ワーズワス、Lucy, 18世紀末

 こうやって実際の例を並べてみると、韻文というものがどんなものか少しはわかりやすいのではないかと思います。ここには英語の例ばかりを並べましたが、ほかにも世界の主要な言語にはそれぞれ固有の韻律があり、フランス語のアレクサンドランや中国語の五言などはここ日本でもよく知られています。ひとつひとつの詩は詩人の作品ですが、韻律自体は個人の創作物ではなく、それぞれの言語に備わっている宿命のようなものなのです。

 こんなことを言うと、「韻律がきれいなだけで中身のない退屈な韻文もあるではないか。そういうものを詩と呼んでよいのか」と疑問に思う方もあるかもしれません。しかしもちろん、そういうものも詩と呼んでよいのです。重要なのは、「詩か詩でないか」という問題と「面白いか面白くないか」という問題が全く別のものであるということです。韻律がきれいなだけで中身のない詩は駄作ですが、駄作だからといって詩でなくなるわけではなく、単に面白くない詩であるというだけです。また反対に心を込めて書かれた面白い散文作品があったとしても、「面白いから」という理由だけでそれが詩になるわけではありません。「猫は可愛い。しかし今目の前にいるこの一匹は全然可愛くない。だからこれは猫ではない」とか「このラクダはとても可愛い。こんなに可愛いということは、これはもはやラクダではなくて猫なのではないか」などと言ってみたところで、猫は猫であり、ラクダはラクダであるのと同じことです。

 現代の日本で「詩」と言うと、「意味不明なもの」「恥ずかしいもの」「気持ち悪いもの」という印象があるかと思います。しかし私がここで指摘したいのは、そうした場合に思い浮かべられるもろもろの作品は、実はそもそも詩ではなかった可能性があるということです。これは何も戦後の現代詩のようなもののみに対して言うのではなく、萩原朔太郎や宮沢賢治なども含めた全員の作品に対して言っています。つまり、学校の教科書に詩として載せられている作品がそもそも詩ではなかった可能性があるということです。
 朔太郎の『月に吠える』以来もう百年以上「詩とは口語自由詩のことである」という認識でやってきたものを、今更になって突然根底から覆すことを言うようで恐縮ではあるのですが、一方では、理論的基盤を持たない権威はどのみち天動説のように崩れ去るのが定めという気もします。「なぜ韻律を持たない文章が詩と見なされるべきなのか」と真正面から問われた時に、たわ言抜きで論理的に回答するのは意外と難しいことなのです。
 
 以上、手短な文章ではありますが、一応題名の通り「詩とは何か」という問いに対する単純で確実な答えを提供できたかと思います。詩とは韻文の芸術であり、詩を詩たらしめるものは韻律です。韻律を持たない文学作品が本当に詩なのかどうかは実はとても怪しいので、「詩を詩たらしめるものは純粋情念による内的必然性であり......」などと長話をしながら壊れた文法で暗号のような文章を書いて詩と言い張る人たちとは、あまり関わり合いにならない方が吉かもしれません。