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イルカがとぶ/イルカは跳んだ

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く
初谷むい(2018)『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(書肆侃侃房)
跳びたくてイルカは跳んだと思つてた遠い夏の日の水族館
橋場悦子(2020)『静電気』(本阿弥書店)

イルカの歌である。初谷さんの歌については、穂村弘さんが「ねむらない樹」創刊号の巻頭エッセイとして取り上げている。

この特別感はなんだろう。ほとんど何も起きていないのに、あまりにも眩しい。我々は自らの生がかけがいの〈今〉の連続だと頭では理解している。けれど、そのことをダイレクトには知覚することができない。(略)そして今、〈私〉の目の前で何かの間違いのように「きみ」が振り向いた。それは奇蹟とはちがうことなのか。
「イルカがとまる」/穂村弘「ねむらない樹」vol.1 

穂村さんの言っていることは、わかるようでいて実はよくわからなかった。正直に言うと、この歌のよさについてもあまりよくわかっていなくて、相聞歌はうまく読めないな、と感じていた。

しかし、橋場さんのイルカの歌を読んで、この二首を並べてみて気がついたことがある。

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く

時間をできるだけ細かく捉えてみる。まず、①初句「イルカがとぶ」で切れる。そして、②二句「イルカがおちる」でまた切れる。ここには数秒の時間の流れがある。③三句以降「何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く」は、②のタイミングとほぼ同時に起こる。

時間の流れは、歌の流れとともに、①→→→②/③となる。改めて読むとこの/の部分が歌の中で引きのばされているのだ。

景 :イルカがとぶイルカがおちる□□□□□□□□□きみが□□□□□振り向く
思考:□□□□□□□□□□□□□何も言ってないのに□□□「ん?」と□□□□

「イルカがとぶ」「イルカがおちる」ここまでは、やや離れたところのイルカに視線が向いている。そこに、すぐそばにいるきみが振り向くことで、突如としてきみが主体のフレームに割り込んでくる。すべての主語は「が」で示されていて、主体の内面と外界に明確に分けられている。

心の声はナ行音によっても強調される。
 なにもいってのに 「?」と
最初に読んだときから、三句から四句にかけて、韻律が引っかかると思っていたが、この歌は引っかかる歌なのだ。

この歌のポイントは「のに」の部分である。イルカのジャンプを見たとき、主体は「何かを言いたい、もしくは何かを言われたい」と考えていたのだと思う。それな「のに」きみがノータイムで振り向いてくる。ここに主体の驚きが凝縮されている。

この歌は素直に、何も言わずに振り向いてくるような無防備な「きみ」といることで、目の前の光景を存分に味わうことができた、と読める。けれども、わたしには、どんなときでも自分の思考に捉われてしまう主体と、その捉われを振りほどく一瞬への強い希求が沸きあがるように思えてくる。

続いて橋場さんの歌を読む。

跳びたくてイルカは跳んだと思つてた遠い夏の日の水族館

この歌についての鑑賞は、かりんの貝澤俊一さんの評に詳しい。

おそらく歌集を代表する一首である。特に説明を要する歌ではないのだが、しいて言えば「水族館の遠い夏の日」としなかったところがポイントだと思う。「水族館の遠い夏の日」だと、水族館の持つ鮮烈なイメージがわずかに「遠い夏の日」に勝ってしまい、微妙にバランスが崩れるのだ。ことばそのものが持っている本来の詩の力を生かすためには、「遠い夏の日の水族館」とする必要があった。ここに至って回想は誰もが経験する夏の原風景としての詩を得るのである。

ここでも、時間を追いかけてみる。①初句と二句「跳びたくてイルカは跳んだ」。続いて②三句「と思ってた」この「た」は連体修飾とも取れるが、いったん切っておく。③「遠い夏の日の水族館」は、軽く「にて」を補って倒置すると自然に歌意が通る。もちろんつなげて読んでも違和感はない。

①は回想だが、②で時間の流れを大きく引き伸ばし、③現在と「夏の日」の距離を提示している。

そして、作品には書かれていないが、⓪イルカが跳ぶ瞬間には、イルカが跳ぶことの動機など考えたことがないイノセントな主体が浮かぶ。

③遠い夏の日の水族館(にて)/⓪イルカ(が/は)跳ぶ(のを見た)
→①跳びたくてイルカは跳んだ/②’と思う
→①跳びたくてイルカは跳んだ/②’’と思った
→①跳びたくてイルカは跳んだ/②’’’と思ってる
→①跳びたくてイルカは跳んだ/②と思ってた

これらの時間の位相は明確な境目を持たず、無意識に「内発的動機づけ」と思っていたイルカのジャンプが「外的報酬」によるものだったと気がつく。

景 :□□□□□イルカは跳んだ□□□□□□□夏の日の水族館
思考:跳びたくて□□□□□□□と思つてた遠い□□□□□□□

確かなのは「夏の日の水族館にイルカが跳んだ」というだけで、主体の中には、長い年月をかけて、イルカの動機、ひいては主体自身の動機に向きあうような何らかの位相の変化があったのだろう。

そして、この歌の心の声はタ行音によって強調されている。
 とて とおもってたとおい
乾いたタ行音が重なっているのは、自分の記憶に対する意識が外には向かず、ひたすら内省を重ねているかのような印象を受ける。

蛇足ではあるが、下句は「とおい/なつの/ひの/すいぞくかん」であって、「すいぞくかんの/とおい/なつの/ひ」ではない。イルカが跳んだ「夏の日」は明確に一日だが、「水族館」には、あの夏の日から今日まで無数のイルカが跳び続けている。そして、歌のリズムはデクレッシェンドをしながら、読者の中に水族館の余韻を響かせて消えていくようだ。

イルカのジャンプを通して、短歌の持つ時間の奥行きに気がつくことができたことがうれしい。

※2020-09-15 内容の一部に、作品に対する恣意的で不適切な表現があり加筆修正をしました。お詫びいたします。


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