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第10回 国分寺崖線と成城台地

 ご存知のように我々が暮らす成城という街は、東に仙川が流れる低地帯、西に国分寺崖線が作る崖をもつ‶台地〟上にあります。成城学園の前身、成城第二中学校が1925(大正14)年に東京市牛込(現在の新宿区)から当地、北多摩郡砧村喜多見に移転してきたときは、まさにこの台地の東端に校地を定め、地主や小田急から取得した土地を父母に分譲していきました。これは学校の建設資金を捻出するためでしたが、こうして砧村は理想的な学園都市=郊外住宅地となっていきます。

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 1929(昭和4)年に朝日新聞社が分譲した「朝日住宅」(現在の成城五丁目)の西側を南北に走るのが国分寺崖線です。多摩川が十万年の時をかけて作った崖上には雑木林があり、ここは成城学園にとって非常に重要な場所でした。というのも、正門をまっすぐ西に進んだ突き当り(現在の成城四丁目)にある当傾斜地は、ドイツの古都・ハイデルベルクに景観が似ていることから、学園では「ハイデルの丘」と呼び、教師が学生を引き連れて屋外授業を行ったり、学生同士で散策や合唱をしたりするなど、特別なスポットとして親しんでいたからです。今では崖線上に家が建ち並び、その素晴らしい眺めを拝むことはほとんどできませんが、樹林や湧水に恵まれていることから、世田谷区では残る緑地帯を「神明の森みつ池」と称して、保全地区に指定。故大林宣彦監督のお宅もこの崖下、野川沿いにあります。
 ちなみに「みつ池」の呼び名は、当地に三つの池があったことに由来すると、成城自治会前会長で、この近所にお住いの中川清史さんから伺いました。

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 この緑地内にあるのが「旧山田家住宅」です。1937年頃に建てられた洋館で、戦後はGHQに接収されたと聞きますが、この家を使って撮影されたのが『あ・うん』(89)という映画です。向田邦子原作、高倉健主演ということもあり、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。成城学園出身のご子息に伺った話では、当家では特撮テレビドラマ『ミラーマン』(71〜72)のロケも行われたとのことですが、飛び交った火気によって庭の芝生が傷み、以降、撮影は禁止となったそうです。当緑地のエントランス部分に聳え立つヒマラヤ杉は、やはり円谷プロ作品『ウルトラQ』の一篇「あけてくれ!」(66)にちらりと写り込んでいますので、機会があったら是非ご確認ください。

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 本邦初の当特撮TVドラマで、一の谷博士の研究所のロケ地となったのが旧龍野邸です。現在、有名イラストレーターY氏が所有する本洋館は、特撮マニアの聖地であるだけでなく、多くの東宝・新東宝映画にも登場します。のちに作曲家の山田耕筰が住み、ここで亡くなった龍野邸については、いつか詳しくご紹介したいと思います。

 先に紹介したヒマラヤ杉の先では、ある有名な映画の撮影が行われています。その映画とは植木等主演の『日本一のホラ吹き男』(64)。先の東京五輪の年に公開された本作は、成城北口駅前にあった吉田書店の店先でも撮影が行われていますが、植木がホラを吹きまくって大出世し、勤務する会社のマドンナ社員(浜美枝)と結婚して構えた新居が、この「ハイデルの丘」に実際にあったお宅でロケされているのです。位置的には、黒澤映画でお馴染みの志村喬旧邸のすぐ南側に当たり、近くにはかつて千秋実や京マチ子(大映)、それに日活の某大スターも豪邸を構えていました。
 今般、映画の画面に写るこの家を、拙著『七人の侍 ロケ地の謎を探る』のスタッフ・星加正紀氏の力を借りて推定した筆者。旧知の中川さんを通じて、今は存在しない当住宅にお住まいだった方に画面を確認していただいた結果、植木と浜の新婚家庭が、ここでロケされていた事実を突き止めるに至りました。当家の庭からは、小田急線の青と黄色の車両と、いまだ護岸工事がなされていない野川を望むことができます。昭和初期の成城学園の女学生たちも、この風景を眺めて癒されていたかと思うと、なんとも不思議な気分がしてきます。

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※『砧』817号(2021年5月発行)より転載

【筆者紹介】
高田雅彦(たかだ まさひこ) 日本映画研究家。学校法人成城学園の元職員で、成城の街と日本映画に関する著作を多数執筆。『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『山の手「成城」の社会史』(共著/青弓社)、『「七人の侍」ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)の他、近著に『今だから!植木等』(同)がある。