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観応の擾乱|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載119

 南北朝時代の正平元年(南朝元号/1346)1月、北朝の奥州管領(司令長官)として畠山国氏と吉良貞家が陸奥国府の多賀城に着任。正平2年(1347)6月に軍事行動を起こした畠山と吉良は、奥州南朝の拠点であった霊山(伊達市)と宇津峰(郡山市/須賀川市)を陥落させた。敗北した伊達氏と田村氏は、白河の結城親朝の指揮下に組み込まれたようである。当時の結城氏は北朝の総帥・足利尊氏より中通り地方の武士を統率する権利を与えられていたからである。何にせよ1347年秋の時点で、奥州は北朝によって平定されたわけだ。

 ところが4年後の1351年(南朝・正平6/北朝・観応2)に奥州管領の2人が争いはじめた。その原因は京にある。足利尊氏の弟・直義と足利家執事の高師直の対立だ。

 北朝と足利氏による武家政権の室町幕府は、複雑な支配体制を敷いていた。将軍職には尊氏が就いていたが、行政権を与えられていたのは直義。一方で軍事面では高師直が重きをなしていた。この状況を現代に例えると、小学校のクラスと考えると分かりやすい。

 まず足利小学校6年1組の担任教師が尊氏だったとすると、生徒をまとめる学級委員長が直義。直義はクラスメイトに校則を守らせようと懸命だが、ガキ大将の師直がこれに従わない。何かと委員長に反発する師直だが、運動会などで活躍するスポーツマンだったので同級生からは大人気。結果、足利小学校6年1組は真面目な直義グループとやんちゃな師直グループに分裂してしまった、ということになる。

 直義と師直の対立は最終的に軍事衝突となり、これを〝観応の擾乱〟と呼ぶ。観応とは当時の北朝元号である。直義派と師直派の争いは京から全国へ飛び火。すると直義派の吉良貞家と師直派の畠山国氏も、奥州で争うようになったのである。


観応の擾乱|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載119

 1351年2月、戦上手だった吉良貞家が畠山国氏を岩切城(仙台市)へと追い詰めて自刃させた。このころ二本松にいた国氏の父・高国は息子を救おうと岩切城に駆けつけたが、ともに討死してしまう。唯一生き残ったのは国氏の嫡男・国詮。国詮は落城する岩切城から辛うじて脱出し、二本松にあった畠山氏の居館・田地ヶ岡館まで逃げ延びた。しかしまだ幼少だった国詮に反撃する能力はなく、このあと畠山氏は安達郡の一大名として命脈を保つのがやっとだった。

 こうして奥州を一人で束ねることになった吉良貞家。だが、すぐに南朝によって足をすくわれてしまう。北朝が観応の擾乱で混乱するなか、出羽三山(山形県)にいた南朝大将・北畠顕信が息を吹き返したのだ。顕信再起の報が各地に伝わると、一時は北朝に降っていた伊達氏と田村氏がこれに呼応。ふたたび南朝方として動き出した。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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