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日本の美術館においてベビーカーが透明でなくなる転換点に居合わせた透明だったかつての私。


美術館で幼子を連れた日本の親はなぜ透明であったのか、かつて幼子の母であった俺の語りを聞いてくれ。


先日、一瞬、一般にも話題沸騰になった国立西洋美術館の展示に行きました。

上記のnoteでは触れなかった部分「美術館におけるベビーカー/車椅子ユーザー」について子連れ鑑賞を続けきたい自分も触れるべきだと思い始めたので、自分なりに整理してみたいと思います。

私は17年ほど子供を連れて現代アート界隈を徘徊するということを続けてきました。現在、息子は大学生になったので一旦「子連れアート」は終了となっています。


ちなみに「子連れで美術鑑賞」について、美術手帖さんにもインタビューして頂きました。ありがたやです。


上記のインタビューでも話しましたが、私自身はベビーカーで、子供連れで美術鑑賞をする際、日本の環境は本当に改善されてきたと感じています。15年ほど前はベビーカーで美術館にいるだけで非常識と怒られたこともありました。そもそも「子供対象ではない展示に」子供を連れてくる行為を行う人は極端に少なかったと思います。

私はなぜ一部の鑑賞者に怒られ続けても鑑賞したかったか、それは「私が見たかったから」。そして今現在、私は一人で自由に鑑賞をしています。なので子供連れで美術館で鑑賞してる人を真剣に応援したいと思い、今後はその方面の発信もしていきたいと思っています。
つまり、私は自分の子供が子供でなくなってから声を上げる行動を始めたわけです。不思議ですよね。「どうして子供が小さい時に「子供連れだって美術を見たい」と声をあげなかったのか」「なぜ今になってメディアのインタビューを受けたのか」と感じる方もいらっしゃると思います。

今回の国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ―」では田中功起さんの作品(というか提案)「美術館へのプロポーザル1:作品を展示する位置を車椅子/子ども目線にする」という展示がありました。
私はこの提案を読んだ時に「これが作品になるってことは、やはり私のような親、というかマイノリティは日本の美術館では透明という認識だったんだな」と強く実感させられたのです。

ここからは自分の体験談を元にした文章になるので下記は「ベビーカー」のみを表記します。低い目線という点では車椅子ユーザーも併記すべきなのでしょうが、「幼子を連れての鑑賞と大人を連れての鑑賞は実際には相違点が多い」と考えるからです。


田中功起さんが提言されているような案は17年前から(これは私は17年前から鑑賞を開始していたので17年と書いています)感じていたことでした。ベビーカーでは全く見えない展示を子供が興味を持つわけがありません。なので私は展覧会のフライヤーを先に見せてそのフライヤーに掲載されている作品の前まで行ってその場で抱っこして作品を見せたり(要は答え合わせ)していました。紙で見ていたものと実際しているものを比較する、という行為は幼子には面白かったようです。(現在は動画がとても浸透したのでこの方法は少し難しいかもしれません)。

そして私たちは息子が8歳の時に夫の仕事の都合でシンガポールに転居しました。その転居がきっかけで私はアジア、オセアニアで近年出来た美術館を多く訪問する機会に恵まれました。そこで私はベビーカーや幼子でも見やすいように段差を設けている展示室や子供が触ってもトラブルにならないような展示構成になっている美術館が少なくないことに驚愕しました。
つまり、アジア、オセアニアで近年出来た美術館では子供連れや車椅子ユーザーである視線が低いマイノリティが透明ではなく見えている、ということではないかと思っています。


欧米だって被白人について差別があるじゃないか!という反論もあるかと思います。最近ですとアカデミー賞でのアジア人の透明化というのは話題になりました。

ではなぜ、子供連れや車椅子ユーザーである視線が低いマイノリティのサポートがあるのか、それはマジョリティ、強い立場の中にも子供連れや車椅子ユーザーはいるからでしょう。

日本はどうなのか。日本の中での美術館に足を運ぶ人、それは大人が大半でした。その中で視線の低いユーザーはそもそも設定がなかった。つまりベビーカーを押してる人は透明化してきたから配慮がなかった、いや、配慮することすら思いつかなかった、というのが現状なんだろうなと私は感じました。

私がベビーカーを押していた15年ほど前はワンオペという言葉もまだ浸透していませんでした。子供の世話、家事をするのは家庭では女性、という考え方が一般的だった時代です。そして私を含めそのような考え方に疑問を抱いても行動するような流れはありませんでした。行動なんて思いつかなかったというのが本音かもしれません。

だから、現在「幼子を育てながら」活動してる方に私は深く尊敬の念を抱いています。そしてそのような活動してる人に配慮する環境を作る側(ここでは美術館側)にも深く尊敬の念を抱きます。本当にありがとうございます。
同時に現在「行動できなくて耐えてる人」に深く寄り添いたいと思っています。なぜ行動できないのか、なぜ意見を言えないのか。そりゃ怖いからですよ。
自分が元々自由であったり強い立場であったりすると弱い立場の人が行動できない理由、言えない理由が見えないものです。これは仕方がないものです。見知らぬ男性に子供の存在を怒られる恐怖。あの恐怖感は実際に怒られた者しかわからないと思う。怒る人は大体自分より弱い立場の人に物申すものですから。

15年ほど前は日本ではベビーカーは女親が押すもの、という認識が強かったと思います。そして平成から令和になった最近は男親の育児参加も活発になってきた感があります。男親が抱っこ紐で赤子を抱えて鑑賞したり、お子様をベビーカーに乗せて展示室を見ていたりする姿も増えました。
私はとても、とても、嬉しい。

同時に子供連れの男親がクレームを受ける、という事も増えて来たようです。そしてその旨を問題提起するケースも増えてきました。今回の田中功起さんの展示はその行為を作品化した、と私は解釈しました。

それはとても喜ばしいことなのですが、同時になぜかつて同じような問題に直面してきた親、特に母親が問題提起できなかったか、という面にも想いを寄せてほしいと思います。

私は美術館、博物館へ「ベビーカーを押してる親子が展示を見やすくなる提案」と同時に「そこに居合わせる鑑賞者がベビーカーを使用している親子を気にしないためのマインドチェンジ」も提案したい。彼らがその場で奮闘してる様を暖かく距離を取って見守りたい。私は多様性というのは「受け入れるより気にしない」方がお互いが気持ちがいいのではと考えるからです。

もちろんここで「じゃあ子連れ様は何してもいいって言うのか!」という声も出ますがここで先に言わせてください。そうではないです。もちろんマイノリティが心掛けるべきことも、あります。走らない、触らないなどの公共の場で守るべき最低限の所作は守るべきです。つまり、美術館で守るべきことは「公共の場で守るべきことを守れば良い」。同時に双方が今は手間をかけなくてはいけない、諦めなくてはいけない部分も、もちろんあると思います。

そして私は自分が田中功起さんの作品である保育士のインタビューや映像の視点が「撮影者側視点のみが際立つ」ように感じてしまう、誤解を招くことを躊躇しないでいうのなら「私たち母親の苦しみをずっと見えなかったくせに何を今更」という視点を持ってしまうことに驚きました。

この感情をなるべく冷静に分析すると「今、強い立場の男性によって問題提起された状況」に直面してかつて封印していた「自分の苦労を気がついてもらえなかった苦しみ」に気がついてしまった、という感じでしょうか。ベビーカーを押していた親たちは透明な存在だった。気がついてくれる人はいなかった。なので提言ができる強い人が出てきたことに驚いてしまい、なぜ自分が気づいてもらえなかったのか、という気持ちにも気づいてしまった。
いきなり強い立場の提言で透明だった自分がいきなり強い意見に染められるような気持ちになってしまった。という感じでしょうか。

強い立場の人が問題提起してもらうことで状況は改善に動くことが大きくなります。この展示の中で美術館でのベビーカーを押す親子の立場がより自然なものになるとしたらこんな嬉しいことはありません。同時に美術館に集ってきた様々な背景の人たちがその時の展示(企画展だけじゃなく特別展もカフェも全て)を体験して気持ちよく帰路につけるようになってほしい。そのためにはそこの集う全ての人の背景をまず想像する、想いを馳せることから始めたい。

それぞれの人の立場、背景、言えなかった言葉を想像して「じゃあ今は何ならできるのか」を具体的に考えていきたいものです。その方が気持ちいいじゃないですか。気持ちいい方が楽しいじゃないですか。

私は日式のママ友付き合いができないダメ人間です。なので本当美術館に、美術に救ってもらった感があります。だからこそ提言だけじゃく、話を聞くだけじゃなく、今、自分ができることから始めたい。言いっぱなし、聞きっぱなしではなく、自分が出来ることから始めたい。
だって大好きな場所に行ったら気持ちよく帰りたいから。
「美術はその人が究極の快感の上で完成されてるもの」のはずですから。