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まだ生きてるのか、まだ生きていくのか。そして生きてていいのか。〜日帰り名古屋で感じた生きることについて考えたいくつかのこと〜


生きていくってね、大変だけど、とても生命的だと思った。


さて、瀬戸芸から帰ってきた私たち。高揚感がすごかった。夫がとても羨ましそうだった。彼は仕事があったので瀬戸芸には行けなかったのだ。その高揚感のままに私は夫に提案した。


「あいちの芸術祭、家族で行きませんか??」

名古屋だったら、横浜から日帰りで行ける。同時にも芸術祭の素晴らしさが体に染み付いた私たちは「芸術祭は行ったことを楽しむべきでありどこに行くか、どれくらい行くのかは自分次第」をわかってる。夫もその提案にすぐ乗り、子供も、もう行くしかないぜという感じで、行くことになった。我々のフットワークはマジで軽い。


芸術を見にいくことに私は躊躇感はない。わからなかったらどうしよう?とか気にしない。これは、私が赤子を連れて芸術を観ることがメインだった故染み付いた感覚だと思われる。文化芸術に触れる際「深みを感じなくては」「理解しなくては」と思う人がすごく多いのだけど、赤子や幼子と共に芸術に触れることが多かった私には

「理解とか深みとかそういうのは現場で受け止めることができる範囲で受け止めよ。まずはそこに行けたこと、行けたことを感謝すれば良い」


この思考、ひとりでしっかりと鑑賞、そして思考を反芻する余裕がある人には感じられないかもしれない。でもね、でもね、そこに行けたことだけでも涙が出るほど嬉しいって後から思い出すこともある。だからいいの(まあだから「家族鑑賞は邪魔なんだよ」的なことを言う人もいますが気にしない)。


というわけで、いきなりの弾丸名古屋決定。東條英機の後頭部を見つめる東京裁判の大川周明になりきって考える(叩かないよ)。



さあどうやって回るか。


家族行動なので無理をしない、なので芸術センターともう1箇所のみに照準を合わせる。行き先を夫に選んでもらうことにしたら塩田千春さんの作品が観たいとのことなので、一宮地区を選択。

次に天気。天気予報を見ると「午後から雨」。なので雨でも問題ない、帰りの移動が楽にしたいので芸術センターに午後2時半までに着きたい。では先に一宮にGO ! というプランを新幹線の中で考えた。あっという間に名古屋に着いたので先に考えてよかった(静岡あたりから眠ってしまった、私は基本的に乗り物の椅子に座るとすぐ寝てしまう)。


さて、そして一宮。何かイベントあったようで羊さんに出迎えてもらう。


 Google mapを観ながらまずは旧一宮市立中央看護専門学校を目指す。後で深掘りするかもしれないのでとりあえずTwitter。


旧一宮市スケート場、オリナス一宮、そしてのこぎり二の3つはとてもよかった。移動が公共交通機関しかないので時間配分が難しいのはしょうがない。

旧一宮市スケート場のアンネ・イムホフはぜひ他の作品も見てみたい。体で感じるとても芸術祭らしい展示だった。

そして雨が降り出したので芸術センターへ移動。


3年前、芸術センターを暑い中回ったことを思い出していた。あの時は一時帰国だったのでもういいや!ってことでタクシーで飛び回っていた。

当時の記録。


タクシー初乗り料金は現在よりも安価だったような気がする。そして前回は真夏の時期だからだろうか。空気が違った気がした。時の流れを感じる。3年ってあっという間なんだけど今回の3年は本当に長かった。

私は自分がマレーシアで日本より厳しいパンデミックに見舞われたわけだけど、どこかで感じていたのは「もっと苦しい状況にいた人もいっぱいいたのに、なんで自分はこんなに参ってしまったのか。なんて私はダメな人間なんだろう」という思いだった。


もちろん子供の卒業まで生き抜いたし、入院などのトラブルもなかったわけなので褒められていいのだけど、でも、でも本当にしんどかった時はしんどかった。何度も何度も危なかった。


バイロン・キムの「《サンデー・ペインティング》2020-2021」


バイロン・キムの「《サンデー・ペインティング》2020-2021」を拝見した時、同じようなテキストを見つけた。「他の人でもっと辛い体験をしてる人もいるのになぜ自分はこんなに参っているのか」旨のテキストがほんわかした青空の上に細い字体で手書きで描かれていた。


この作品を見た時、「私がずっと苦しんでいる原因はこの想いではないか」と思った。このパンデミックは正直逃げ場がない、つまり「ここに行けばこの辛い状況から「確実に逃げられる」場所がない」。なので自分の痛みを自分の中で見つめるしかない。自分で解決しなきゃいけないのに、なぜ自分はできないのか。と自分で自分を責めてしまう。そしてその自分への恫喝は「生きてる価値なんてない」と思わせるまでに進んでしまう危険性がある。

このパンデミックの自殺率の高さの原因は、この止められない自分への恫喝からきているのではないだろうか。


この自分を責める気持ちはなかなかしぶとい。正直私自身、本帰国したら毎日忙しく動いてもう忙しい!って充実すると思ってた。パンデミックの傷など忘れられると思ってた。もちろん、忙しいのだけど、時々「こんなに出来ない!」って発狂しそうになる。そして何もかもできないです、無理ですって布団かぶって息を止めたくなる。


なんでこんなに弱いんだろうって泣きたくなる。いや、泣いてる。


今回のあいち2022での展示で私は何度もこの「自分を責める気持ち」を思い出した。瀬戸芸の時より苦しい思いを思い出すことが多かった。それはきっとあいちは都市部開催で自分が閉じ込められていた場所に近かったからだと思う。そして私は辛かった時の気持ちを思い出すと同時に「でも私、まだ生きてる。」と思い出した。


もしかしてこれが「STILL ALIVE」なのだろうか。


人間誰しも「死んじゃおうかな」って思ったことはあると思う。同時に「死にたくないけど死んじゃうかもしれん」という状況に追い込まれた経験がある人は絞られると思う。私は以前癌宣告を受けた際に「自分の病気で死ぬかもしれん」という内的圧で追い込まれた。そしてロックダウンで「外的圧で死ぬかもしれん」と追い込まれた。
内的圧と外的圧で追い込まれる死の恐怖は種類として違うかもしれない。でもどちらも味わうとわかる。死は死でしかない。


そして私はまだ生きてる。生きてるのか、生きていくのか、自分ではよくわからない。自分のような存在が生きていいのか、と問いかけることが増えたけど、そもそも一体何に問いかけているのだろう?ある生命体が生きてていいって他の生命体が決める権利ってなんだろう。


芸術は心を揺り動かす。そして揺り動かしたということを伝えていくことで、その芸術は生きる。芸術を生かすために、私たち人間も生きる。理由や定義は生きていないと、そして思考する力が必要だ。


今回の日帰り旅行もとても楽しかった。3年後の出会いが楽しみだから、生きる。そのために今、無理をしないで生きるよ。



そうそう、帰りの名古屋駅で「なんかレースの格好した人が多いなあ」と思った後で気がついた。F1日本グランプリでしたね。

3年後は日本グランプリの開催地も日本の総理大臣も変わってると思われるけど、みんな生きていきこうね。