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なぜ私は子供に文化芸術を実体験させることにここまでこだわるのか


だって体験しなきゃ、知らないままじゃん。


本当にドタバタした日々を過ごしたまま気がついたら2024年の3月が終わろうとしている。もうすぐ4月だなんて、そんなの聞いてねえよ。


最近強く「自分の立ち位置」について考える。特に自分が好きな文化芸術についてである。最近、SNSに短くこんなん観ました、と投稿したものがそんなに意味があるのか、と思うことが多くなった。フェアとか、イベントがあると一斉に投稿が増える。そのイベントに関係してる人が自分の所属してる場所についてあげるのはわかるんだけど、そこに行っただけの人が単発にあげる意味ってなんだろう、と疑問を感じる様になった。しかし、同時に自分自身が投稿したものを見て展示を見に行くことをまだ続けている。そして自分が感じたことを言葉にできるタイミングを待って、投稿をする。自分の行動にも矛盾も感じる。
私自身は他人に承認要求を求めないからええやん、と割り切ることもできる。でもなんかしっくりこない。では何のためにやってるのか、それは自分のライフログとして残しておきたい記録だから、というのが一番近い言語化であろうか。

私の言語化の先生は多数いらっしゃるが、そのうちの一人は息子さんである。今回、息子さんと美術手帖のインタビューをして頂いた。そして2023年は森美術館でのインタビューに立ち会わせてもらった。その際、自分が産んだのだけど「本当に聡明に自分の状況と意見を日本語でも言える人だなあ」と感心してしまった。そして同時に恥ずかしいこことに自分が何かを教えたか、と思い返してみると、何も、ない。彼はつまりアーティストやギャラリスト、学芸員さんやスタッフさん、そして共に見てる人々から多くのものを学んでいたのだと思う。私は連れていっていただけ。

しかし、私はその 「連れて行っただけ」の自分を現在はとても誇らしく思っている。それはなぜかというと、OpenAIの登場があったからだ。

Chat GPTはそれなりに使ってるけど画像生成AIは正直恐ろしくて使えない、そのくらい精度が日々上がっている。同時に恐ろしさを感じるのは「生成された作品がその人の判断基準になっていく可能性」だ。
人は、いや、生き物は自分の生活の中で入ってくる情報から判断を行う。つまり、与えられた情報がとても重要になるのだ。その情報は視覚だけじゃない。聞こえくる音、触れてくる空気、全てが判断基準になる。

しかし。

この判断基準が人によって違う。つまり元々与えられた情報が違うと判断基準が変わってしまう。最近の若者は青春時代がコロナ禍であったという我々若くない人と違う状況がある、つまり与えられた情報が全然違うのだ。
人によっては「オンラインで出来るのならそれでいいじゃん(だってあんたたち大人がそう言ってたじゃん!言ってたよね???)」という判断基準で2度と戻ってこない青春期を過ごしてきたのだ。その様な状況で育ってきた若者がリアル情報を否定した判断基準を出してきて「それが違う」って自分勝手過ぎませんか。

私は「子供に経験を提供する、そしてその経験を理解するために共有する」ことを無意識に意識していたから子供と一緒に文化芸術を見ることを続けていたのかもしれない。共有は子供側からしたら余計なお世話かもしれんが(汗)でも、文化芸術を繋ぎとして家族の思い出があるとそれはそれで素敵じゃないですか。(あれ、そんなこと考えるの、親だけ?)


出かけるだけじゃないです。自分で欲しいものを探して買う、本を紙で買って読む、料理を材料を買って自分で作る。みんな「体験」。どこに何があるんだろうから探すのだって立派な体験です。
うちの息子さん、14歳の時にコロナで2ヶ月ほどガチで家から出なかった時(当時マレーシアにいてコロナのロックダウンが強烈でした)超久しぶりに徒歩3分のスーパーに行った時買い物のやり方忘れかけてましたからね。14歳ですらそうなんだから。友達に会ったり学校の帰り道に寄り道したりみんなで遊んだりする体験がごっそり抜け落ちたのって結構大事なことだと思いますよ。


なのでぜひ、あらゆる層で文化芸術に触れてほしいと思います。ぜひ皆で出かけましょう。出かけられるところから。