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Barbenheimerの件について自分が思ったこと。

「Barbenheimer」というブームが北米で起こっている。これは北米で今年の夏、2つの大作映画が公開され、この2つの映画のコラボが勝手に盛り上がってる。

そしてそのブームが核兵器やキノコ雲に広がるのでこれから公開予定の日本では「核兵器をこう扱うのはどうなのよ」的な動きが出てきている。


バービーとオッペンハイマーのミームはみてて私は正直すごく辛かった。時にこの流れはキツかった。(SNSでは既に削除済の模様)


私自身は基本映画は飛行機の座席で見る人。今年の秋から息子がトロントに留学するので今後私は北米に行く子も増えるだろう。その際、正直この2つの映画は生涯選ばないだろうなと感じている。


別に日本人として!とかそういう感情が第一ではない。なぜ辛かったのか、なぜ干渉する機会を選ばないか。それはこの2点からだ。

1:マイノリティの悲しみをマジョリティに理解してくれというのはほぼ無理と経験してるから
2:マジョリティゆえの鈍感はガチで傷つけらえることをマジョリティ側は理解できない。そしてその無理解からの傷はマイノリティでのガチのトラウマになる

今回の件、ワーナーはプレス向けに謝罪を行ったそうだ。

 映画「バービー」の米国公式X(Twitter)アカウントが、原爆とキャラクターを合わせて描いたファンアートに、ハートマークなどの絵文字付きで返信していた件を巡り、米エンターテインメントメディアのDEADLINE.comは7月31日(現地時間)、米Warner Brosグループから謝罪のコメントを受け取ったと発表した。

引用:バービー“原爆騒動”巡り米ワーナー本社が謝罪コメント 米メディアの取材に「心から謝罪する」


ここでの謝罪はプレス向けである。つまり一般には行っていない。そりゃそうだ。北米でミームを作ることに楽しんでる人たちは何が悪いかわかっていない人も多いし、映画は大ヒットしてるのだから別に日本市場なんでどうでもいい。ミームを作ることに楽しんでる彼らは私のような日本人がこのミームに傷つくことをどんなに説明してもわからない。同時に弱者として生きる我々はマイノリティとしてマジョリティ側から傷つけられる行為を続ける可能性がある、と予想しながら生きていくしかない。と再認識したのが辛いのだ。


強者がどんなに綺麗事を言っても長年の教育で植え付けられたそう簡単に変えられない。どんなに世界中の人が英語を話しても、英語の発音を笑う輩がいなくならないように。


私は9年東南アジアに住んでいた。シンガポールとマレーシアにいたのだけど、そこでがっつり子育てをした。その時に息子が通っていた小学校は8割がオーストラリアとニュージーランド人、中学校はガチで勉強する学校で学年に日本人は皆無というガチのマイノリティだった。

幸い、息子がガチで運動も勉強もする文武両道タイプだったので人種的にはマイノリティでもそれ故の差別を直接受けてダメージを喰らったことはほぼない。(日本人コミュニティの時の方がよく怒られた)ただ外見のみの際で受けた排除などがなかったと言ったら、嘘だ。

そして何より怖かったのはその外見故のみの排除からの「あなたは⚪︎⚪︎だから(マイノリティだけど)仲間に入れてあげる」的なターンであった。このターンに遭遇する度に帰宅後寝込んでしまうほどに疲れた。なぜって、「仲間に入れてあげる」いつ排除されてもおかしくないからだ。

小学生の時に誕生会に呼ばれた時気がついたら自分以外全員白人ということがあった。その状況に気がついた際の緊張感はもちろんあったけど一番緊張したのは多くの父兄に「自分のみが認識されてる」状況と「あなたの子供は私の子供のBest ASIAN Friendなのよ!」と満面の笑みで言われた時。

学校にはうちの子だけではなく他にもアジア系の子はいた。でもここにいる子たちの親には見えてないのか、と思うとゾワっとした。そして彼らはその見えてないことに対して何の罪悪感もないのだ。私の「自分も見えない立場にされるかもしれない」という恐怖感は想像できないのだ。

同時に私はこの恐怖感を理解してもらおうとは思えなかった。だって人の考え方はいつでも変わるし、その変化が相手にとってどうなるのかというはマジョリティにはわからないだろうって諦めているから。このようなマジョリティの無意識な暴力は長年の教育によって無意識に強固に積み上げられていく。ナチズムやユダヤ人迫害は絶対NG、でも核兵器はミームにしてよし。それは北米における長年の教育で積み重ねられたものだ。

あなたは(私たちとは違うけど)私たちの仲間だから、という言葉に嘘を感じているわけではない。私自身本当によくしてもらった。しかし、しかし、私の中でだからと言ってその人の言葉を全面的に信じることで、自分を傷つけたくなかった。なぜって「多くのマジョリティの暴力は無意識である」を近くで見ていて実感していたから。自分が信じていた相手が結果的に無意識に暴力を振りかざす可能性がゼロでないことをわかっていたから。

うちはそれなりに海外生活経験があるけれど東南アジア経験しかない。北米で生活することで息子は真のマイノリティ側になる。その際にどうすべきなのか、わからない。ただ、今までとは違う、という認識とともに進んでいくしかない。そして「無意識な暴力」の遭遇に覚悟するしかない。

今回のバービーとオッペンハイマーのミームについてに動向に対して純粋に怒りを感じれる人は自分がマジョリティである場から発信できてるのだろうなと考えてしまう弱い自分がいる。あのガチマイノリティの中で「自分はこれに傷つくんだ」と言えるかどうか、考えてみても、自信がない。だって、相手が本当に無意識であるからというのが今の私には想像してしまうから。

誰からも自由でありたいから、誰の自由も侵害したくない、という都合のいい思考のせいで、私は無意識の暴力から距離を置くことしかできない。

つくづく自分は生き辛い輩である。