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思い出



 最近、初恋の子の夢をよく見るようになった。

その子との接点はそれほど多くなかったと記憶している。
こちらが一方的に思いを寄せていただけで、その恋が実ることはなかった。
十余年が過ぎた今、淡い青春の一ページとして俺の歴史に刻まれている。
きっと彼女の記憶の中に、俺は存在していないだろう。

だから俺は彼女を夢見た時、あの頃を懐かしむだとか、その子との思い出を振り返るよりも、「何故いまさら?」という疑問への解を探るのに時間を使った。

そも、自分が青春を生きていた時代まで遡るのに、両手の指だけでは足りないというのに、初恋ともなると、そこから更にまた何年も時間を逆行することになる。

別に、今に何か不満があるわけでも、その頃に特別な出来事があったわけでもない。
俺という人間は自分でも驚くほどに凡庸に暮らし、凡庸に生きている。
それじゃあ彼女に面影のある誰かと街中で擦れ違ったかと言えば、ここ一ヶ月は仕事以外の記憶が曖昧で、何を食べいつ寝たのかも覚えていないほどだ。
誰かを記憶する余裕などなかった。
或いは、無意識に脳が記憶しているのだろうか。
そんな眉唾な話で納得するには、少し年を重ね過ぎたかもしれない。
結局俺は、この疑問に解を得ることが出来ないままでいた。


 夢の中の彼女は俺の記憶のままに、一人だった。
一人自分の机で本を読んでいる。
ただ、だからといってクラスメイトと不仲だったわけではないと思う。
誰とでも分け隔てなく付き合っていた印象だ。
教室で彼女の笑顔を見かけることも多かった。

けれど、自分から話し掛けている姿は見なかったようにも思う。
彼女の深いところを知らない俺に、語れることはそう多くない。
俺の知らないところではもっと愛想の良い少女だったのかもしれない。

しかし、仮に彼女がそんな人間であれば、俺は彼女に惹かれなかったと思う。
何故なら俺は、一人黙々と本を読む彼女の姿に惚れたのだから。
夢の中で彼女がずっと一人なのはきっとそのせいだろう。
音のない世界に彼女と二人。
伏せられた目が文字の羅列を只管に追う。
僅かに揺れ動く目。
垂れる長い黒髪を耳へと流す仕草。
その目の輝きにときめき、静かで凛とした雰囲気を崩すことのない尖った顔立ちに惹かれたのだ。

俺は話し掛けることもせずただ彼女を見つめ続けていた。

夢は、それだけで終わる。
決して何かが起こることはない。
それがまた俺の胸をざわつかせる。
何て意味のない夢だろう。
普通夢というのはもっと破天荒で常識破りなものを見るのではないだろうか。
空を飛んだり異能の力で戦ったり。
以前調べたことがあるのだが、夢というのは自身の精神状態に影響を受けたり、記憶を整理するために見るものだとされているらしい。
所謂「明晰夢」というものだ。
だとしてもやはりどこか納得がいかない。
確かに彼女は俺の記憶の一片ではあるかもしれないが、それにしては動きがなく、とても記憶の整理をしているという感じではない。
俺自身の生活にも変化は少ない。
では、なぜ。


 その夢は大体週に一度のペースで俺のもとへやってくる。
何度か続けて見ていれば何か変化があるかとも思ったが、どうやらそれもないらしい。
なんの変化もない夢を見続けるうちに、俺の中にあった違和感や疑問も次第に薄れ、その逆彼女に逢えるということにどこか胸踊らせるようになった。
静かなその空間が愛しいとも思えた。
少なからず好意を持っていた彼女を間近で見ることが出来るというのも嬉しかった。
あの頃は俺も思春期で、異性を、彼女を見つめ続けるなど出来なかったからだ。
今は何かに遠慮することなく彼女を見続けることができる。
それはそれでどうかとは思うが。

俺は、その夢を生きる楽しみにしていた。
いつまで見ることが出来るのかもわからない、実際は今何処で何をしているかもわからない彼女のことをただ見つめ続ける夢。
医者に掛かれば、何か重い精神疾患だとカウンセリングが始まることだろう。

そういえば、彼女と同じクラスだったのはたしか中学二年生の時だけだった筈だ。
三年のクラス替えで離れてしまい、それから顔を見かけることもなかったが……。

……そうだ、名前。名前は何て言っただろうか。

すっかり記憶に靄がかかってしまっている。


 それから、連鎖的に当時のことを色々と思い出そうとした。
担任の名前、仲の良かった友人、クラスの中心人物。
文化祭の催し、体育祭の結果……。
記憶の断片を継ぎ接ぎしていく。
けれどどうしても彼女については、俺の記憶の中にある以上の情報は出てこなかった。
名前さえも、思い出すことが出来ない。
頭の中を蠢く靄がより濃くなっていく。
気が付けば四六時中彼女のことを考えている。
朝も昼も夜もない。
まるで本当にあの頃の、彼女に想い馳せていた頃のようだ。
そこまで考えて思わず自分のことを鼻で笑ってしまう。
中年と呼ばれる歳の男が、ついに頭がおかしくなってしまったか。
無意識に独り身であることに寂しさを覚えているのか。
馬鹿馬鹿しい。
こんなことを一々まじめに考えてしまうから、なんでもタイミングを見失ってしまうのだ。

もしも俺が何か行動を起こしていたら、何か変わっていたのだろうか。

……少し疲れが溜まっているのかもしれない。
夢を見るということは眠りが浅いからだと誰かが言っていたような気がする。
眠るにはまだ少し早いが今日はもう休もう。
俺は部屋の電気を消して布団に潜り込んだ。
何年も使い続けている布団は既に弾力を失い、センベエ布団と化している。
もしかするとあの夢を見る原因はこの布団にあったりするのかもしれない。
それならそれで、別に構わない。
どんな形でも、彼女に逢えるなら。

 その日も彼女は現れた。
いつものように彼女の前の席に座り彼女を見続ける。
最初は記憶の中にある自分の席から彼女を見つめていたのだが、繰り返し夢を見ているうちに、この教室内には誰も入って来ないということと、彼女がこちらを見ることはない気付いた。
そのおかげで俺は、こんなにも大胆な行動に出られるのだ。
この絵面も、誰かが見たら警察に通報されるレベルで異常な光景だと思う。
だが、構うものか。
これは俺の夢だ。
俺の中だけにいる彼女だ。

ふと、彼女の読んでいる本に目を移した。

あまりにも彼女のことだけを見つめすぎて気が付かなかったが、彼女の読んでいる本の残りページ数が少ない。
あと数ページで読み終わってしまうようだ。

そういえば、俺が夢を見ているその間、彼女はずっとこの本を読み進めていたのだろうか。
数百ページはあるだろう、濃い緑の装丁がされた文庫本。

それがもうすぐ読み終わる……そう考えた時、俺の脳裏にある予感が過ぎった。

彼女がこの本を読み終わった時、彼女はこの夢を去ってしまうのではないだろうか。
もう逢うことが出来なくなってしまうのではないか。
俺は恐ろしくなった。

同時に気が付く。
俺はとっくに、失っていた筈のあの気持ちを、彼女に恋をしていた頃の気持ちを取り戻していたのだ。
俺は彼女に、もう一度恋をしていた。
嫌だ。
失いたくない。
もしかしたら、あの頃以上に強い気持ちがあるのかもしれない。

そして俺はそれまで考えることもしなかった「彼女に触れる」ということに思い至る。
本を読み進める彼女の手を掴んでしまえば、夢が終わることはないのではないか。

彼女がページを捲ろうとするその瞬間、俺の右手は、彼女の右手に伸びていた。


 何の隔たりもなく、何の抵抗もなく彼女の右手を掴むことが出来た。


心臓が早鐘を打っている。
ついに俺は、彼女に触れてしまった。
彼女は掴まれた腕を振り払うこともせず、掴まれたまま固まっている。

ゆっくりと視線を上に向ける。

彼女と目が合った。
心臓が勢いよく飛び跳ねて、彼女から手を離す。
そのまま勢いよく椅子の上で引っ繰り返り、教室の床に転げ落ちた。
尻をしたたかに打ちつけ、堪らず呻き声が漏れる。

「ふふっ」

小さく、笑い声が聞こえた。
尻を摩る手が止まる。
弾けるように彼女を見ると、口元を押さえながら控えめに笑っていた。
一頻り笑い終えたあと、彼女の双眸が俺を捉える。

今までの時間が嘘だったかのように、彼女は意識を取り戻していた。
彼女は、俺の夢の中にだけいる存在の筈だった。
彼女を見上げたまま動けなくなった俺とは逆に、彼女の口は小さく動きはじめる。

「やっとお話出来るね」

あぁ、そうだ。
その声だ。
細く高く、澄んでいて、消え入りそうな声。
ただ、こんな風に言葉を交わしたのは初めてだった。
夢のような瞬間が、俺の夢の中で起こっている。
まぁ特段不思議ではないのかもしれない。
これは俺の夢、俺の理想や妄想が詰まった世界なのだから。

「何年ぶりになるのかな。本当に久し振りだね。すっかり大人になって」「あ、いや」
「ごめんね、君の睡眠の邪魔をしてしまって」

その口ぶりは、まるでこの状況を全て理解しているという風だった。
何か言い返そうとしても、これまでさんざん変態のように彼女を至近距離で凝視していたのだ。
俺は焦っていた。
そのせいで、意味のある言葉を口から出すことが出来なかった。

「私のことを覚えているのなんて、君くらいだったから」
「え……?」

彼女は立ち上がり、俺に手を差し伸べながらそう言った。
俺は一瞬躊躇ってから彼女の手を取り立ち上がる。
その手は温かった。
並んで立ってみると、彼女の背をずいぶん低く感じた。
こんなに小さい子だったろうか。
いや、俺が大きくなったのか。

「私ね、なんか死んじゃったみたいでさ。……でね、寂しかったからかどうかは知らないけど、上手く成仏出来なかったらしくて」

いきなり何を言い出すのかと思えば、彼女は努めて明るい口調で、寂しそうな笑みを浮かべつつ、そんなことを語った。
話に頭が追い付かない。

この場所に、現実を持ち込まないで欲しかった。
ただ静かに流れていくだけで、それだけでよかったのに。

「……もしよかったら、せっかくだし聞いてくれないかな、私の話。そしたら直ぐに出ていくからさ」

また寂しそうに彼女は笑った。
俺が何を考えているのか、彼女には筒抜けなのだろうか。

彼女に対して何も言うことが出来ないまま固まっていると、了承と受け取ったのか、彼女はとつとつと身の上話を始めた。

――高校を入学した後、半年くらいかな。お父さんの仕事が上手くいかなくなってきてたのと、お母さんの浮気がお父さんにばれたのとが、タイミング良く重なっちゃってね。とても家になんていられなかった。
だから高校辞めて、住み込みのバイトしたり夜間バイトしたりして、マンガ喫茶生活をしてたんだけど……そんなの直ぐに破綻しちゃって。仕方ないから「ウリ」とかやって。
でね、そこで知り合った人に気に入って貰って、同棲って形でその人のお家で生活させてもらうことになったの。
でも、その人実は結構危ない人だったみたいでさ。
最初こそ優しかったんだけど、だんだん殴ったり蹴ったりが始まって……。
私が働きに出るのも気に入らないらしくて、家から出られないように、手錠とかつけられて。
やばいなぁと思って、脱走したんだけど、玄関にカメラが付いてたみたいで直ぐに見つかっちゃって。
追いかけてきたその人に背中をぶすっと刺されて……死んじゃった――。

テレビ番組の合間にあるニュースで数十秒にまとめられた殺人事件。
すぐそこで誰かが死んだというのに全てが他人事で片付いてしまう。
そんな話の登場人物に彼女が主人公として選ばれた。そういう話だった。

「――どう、幻滅した? 君が想像していた私とは、ずいぶん違うでしょ」「……どうして、俺のところへ」

自嘲気味に笑う彼女にようやく俺が返した言葉は、なんとも情けない言葉だった。
もっと気の利いた言葉が言えないのか。

「さっきも言ったでしょ、君くらいしか私のこと覚えていなかったから。折角死んだんだから誰か私のことちゃんと認識してる人に会いに行こうと思ってさ。で、直接会いに行ったら幽霊みたいでなんだか嫌じゃない? だから寝ているところにお邪魔しようと思って」

でも、それも今日で終わりだね。
彼女は呟くようにそう言った。

何か、何かを言わなければいけない。
そうしなければ、彼女はここを去ってしまう。

「全然、邪魔なんかじゃない。嬉しかった。夢の中だからと失礼なことをしたかもしれないけど、これからはここで、好きなだけ本を読んでいたらいいと思う。全然、邪魔なんかじゃないよ。好きなだけ……ここにいて、いい」

 彼女は少し寂しそうに笑ってありがとうと言った。
だが、彼女のその笑顔は、俺の言葉を受け入れたものではないと、直ぐに分かった。

「まぁ……たまに思い出してくれたら嬉しいかな。私の名前とか、ね」

彼女には全てお見通しだったらしい。
俺にはもう、何も言うことが出来なかった。



 目を開くと、見飽きた自室の光景が広がっていた。
それじゃあと手を振った彼女の顔を思い出す。
結局最初から最後まで、俺は彼女の何かになることは出来なかった。

それから半月ほど経って、俺は仕事を辞めた。
別に彼女との一件は関係なく、元々性に合っていなかったからだ。

実家に帰り、今は物置部屋と化している自室を引っ掻き回す。

すると、中学時代のアルバムが出てきた。

一ページ、一ページと捲っていく。
そこには、あの夢の中で見たものと全く同じ、薄く笑みを浮かべる彼女がいた。

――そうか、そんな名前だったね、君は。

ようやく名前を思い出せた時、俺は静かに涙を流した。


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