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『長い一日』をよむ長い一月 〜21日目〜

滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。

第21回の題名は、小説と同じく「長い一日」です。語りはふたたび窓目くんのもとへ。

あらすじ
窓目くんは刈りたての頭に気持ちの良い風を感じながら、春日通りをずんずん歩いている。窓目くんの心中には漠然とした前向きな気持ちと、即興の歌が流れている。
明日振り返ったら、とても一日とは思えないほどたくさんのことが、同じ一日のなかに収まっているだろうと考えている。ズボンの布地みたいに、縮んで戻る長い一日。
窓目くんは自分が空腹だったことを思い出す。自分が何を食べたいのか、何を食べるべきか。そんなことを考えながら歩いていると、講談社に行きあたった。夫が何かの賞を取った際にパーティーに招かれたことや、自分と同じように髪を切ったばかりの人がこのビルのなかで働いているかもしれないなどと考えている。
窓目くんはまた歩き始め、今度は護国寺の階段を上がっていく。本堂のなかに入り、畳敷きの堂内であぐらをかいた窓目くんは布地の伸びを確かめながら、一日がのびていくのを感じている。

長い一日
一日を、一週間のように長く感じたり、反対に一瞬のように短く感じたりする。描かれているのは、わたしたちも経験しているような、ありふれたことですが、強く心を打つのはなぜでしょうか。
終盤、窓目くんが生きてきた三十六年間という時間に、護国寺の三百年以上の時間がつなげられます。自分がいなかった時間を思うともなく思うとき、窓目くんは襟足の軽やかさと布地の伸びとともにあります。前者の壮大さに比べて、後者があまりにもちっぽけに感じられますが、その対比に面白さが宿っているのかもしれないと思わされます。

講談社の社内にいる誰か、によびかける窓目くんが、自分がいない場所に向ける想像力もきっとこの感動の理由のひとつかもしれません。ところで、こういう想像力の働きが描かれた作品に、柴崎友香さんの『宇宙の日』があります。日比谷野音で行われたROVOのライブ「宇宙の日」の様子を描いた短編で、「音楽のなかにいること」がとてもあざやかに表現されています。このなかで日比谷公園を取り囲む官公庁のビルとそのなかで働いているであろう人々のことを「わたし」はたびたび考えます。こんなにすごい音楽が窓の外では鳴っているのに、どの窓にもこちらを覗く人影が全くいないということが「わたし」は信じられないと思います。
終盤、突然「わたし」はあることがわかります。以下、少し長いですが引用します。

そうか、あそこにいる人たちは、きっと、ROVOのライブが始まった瞬間に、音が聞こえて、この音はいったいなんだと思って仕事をしていたパソコンで慌てて調べたら今日は宇宙の日だったので、いてもたってもいられなくて、仕事をほったらかして、階段を駆け下り、日比谷公園へ向かった。だって、こんなすごいことが、目の前で起こっているのに、仕事なんてしていられるはずがないのだから。たくさんの人々が、日比谷野外音楽堂の周りに押し寄せて、聞こえてくる音楽に熱狂し、すばらしく茂ったクスノキやシイやアキニレの下で、わたしたちと同じように踊っている。よかった。

これはあくまで「わたし」の想像であって、現実とはきっとちがうでしょう。だからといって、それがなんだと言うのか。そんなことを思わせるほどに、この文章は生き生きとわたしたちの心に届いてきます。
窓目くんや『宇宙の日』の「わたし」のように想像力を働かせることが、同じ時間を生きる「他者」とのあいだに継ぎ目をつくるのではないか。そんなことを考えています。


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