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遅すぎた自己紹介

 文章を書いて生活していくことになるなんて夢にも思わなかった。

 あまり当てにならない筆者の錆びついた記憶バンクのデータを信じるとしたら、22歳の春、いまは亡き某音楽専門誌のレコード・レヴューのページで新人ライターとして(ひっそりと)デビューしているらしい。

 数ヵ月前まではキャバレーでドラムを叩くバンドマンだったわけだから、自分でも驚くほど唐突な変化だ。というよりもむしろ本人がいちばん驚いている。なにしろ小中学校の作文や読書感想文以外には文章なんて一度も書いたことがなかった。友人たちと組んだ幾つかのロック・バンドでは作詞を担当していたものの、歌詞は歌詞だ。文章とは違う。

 15歳の夏に年齢を偽って年長者ばかりのハコバンに入ってからはずっとキャバレーやナイトクラブでドラムを叩くことが生業になっていた。友人たちと結成した“日本語のロック”・バンドではまったく稼げなかったが、TVドラマの劇伴やフォーク・シンガーのバックアップ・バンドでもそれなりの収入(前者のほうが圧倒的に高収入だが)を得ていたから、渋谷百軒店の裏(ていうか東急本店側から脇道を入ったほうが近かったけれど)にあった小奇麗なアパートでの独り暮らしでも特に金に困ることはなかった。特に裕福でもなかったが、ひどく貧しくもない「働くティーンエイジャー」。

 サウンドトラックは、ストーンズの「Sympathy for the Devil」かな?

 なにしろ10代後半のガキだから、ロック・スターを夢見たことが一度もなかった、なんてはずはない。しかし、当時はまだロック・バンドで金が稼げるような時代ではなかったし、たとえ自分の好きなタイプの音楽ではないとしてもドラムを叩くことでギャラがもらえるのならそれはそれでいいのではないかと冷静に考えられる程度には彼は大人だった。

 東京の下町で芸人さんや芸者さんに囲まれて育った職人の息子であり、幸か不幸か(たぶん後者だが)子供の頃から芸能界の片隅に片足を踏み入れて周囲の大人たちを観察していたこともあって、光り輝くステージだけを無邪気に夢見ているわけにはいかない程度には醒めていた。

 当時の彼がいったい何を考えていたのか、40年後の彼自身であるはずの自分でも実はよくわからない。音楽そのものに関わることについては過敏すぎるほど病的にセンシティヴだったけれど、音楽をプレイしている以外の時間にはまるで夢遊病者のようにぼんやりと生きていたような気がする。どれくらいぼんやりと生きていたのかといえば、これは実話だが、車に撥ねられても数十秒間は気づかないくらいだった。

 幼い頃から危うい子供だった。自力では到底抗えないほど強烈な放浪癖にとり憑かれていて、大人たちが一瞬でも目を離した隙に深い森の奥に迷い込んでしまうような、成人するまで死なずに生き延びたことが不思議だと思えるほど危うい子供だった。その危うさだけはずっと変わらない。

 わたしはいまでも時どき森の奥で迷子になっている。

 22歳でドラムを叩くことを諦めたのは幾つかの事情が重なったからだ。ドラマーとしての自分の限界は早い段階から自覚していたし、夜型の生活が何年も続いているせいで体調は慢性的に地上スレスレの低空飛行だったし、何があっても死ぬまで叩き続けてやると宣言するほどの無鉄砲な情熱も持ち合わせてはいなかった。しかし、そんなことよりもずっと重大で、笑っちゃうほど単純な原因が彼の足下には転がっていた。中途半端なスキルしか身に着けていない二流のドラマーだった彼の貧弱なキャリアは、カラオケの登場とデジタル機器の進化によって完全に息の根を止められた。難しい話ではない。つまり、生バンドの需要が激減したのだ。キャバレーやナイトクラブでドラムを叩けないのなら喰っていくことができない。ただそれだけの話だった。

 本当はもうひとつ、最も重大な理由があるのだが、これについては近い将来、一冊の本の中で書くことになるはずだから、ここでは内緒にしておく。これはまあ、わたしの人生に二歳からとり憑いていた呪いのようなものだ。曾祖母には「祝福だ」と言われたが、わたしにとっては呪いだった。

 さて、これからどうしたものかと考えながら、銀座や新宿の名画座をハシゴする無為な日々を過ごしていた或る晴れた日の昼下がり、高校時代のバンド仲間だったギタリストのHから久しぶりに電話があった。「バンドをやめたのなら、時間はあるだろ? 音楽雑誌に原稿を書いてみないか?」と彼は言った。「知り合いの雑誌編集者が新しいライターを探してるんだ。ヨシハラはいつも本を読んでるから、きっと文章だって書けるだろうと思ってさ」。

 本をたくさん読んでいるからといって、誰もが文章を書けるわけではない。

 たしかに本は腐るほど読んでいた。とりわけ英米文学は(原書も含めて)翻訳家にでもなるつもりかと自分自身が呆れ返るほど読み漁っていたし、フランス文学やラテンアメリカ文学も訳書のあるものは(評伝や評論も含めて)すべて読んでいた。もちろんレコード(ていうか当時はLPだね)だってアパートの床が抜け落ちそうなほど聴いていたが、読んでいた本の冊数はその5倍を軽く超える。平仮名が読めるようになってから20余年、その時点でも既に5000冊は読破していただろう。しかし、小中学校で書かされた作文や読書感想文以外には一度も長い散文を書いたことがなかった。

 だから、フリーのポール・コゾフに傾倒していたギタリストのHからの電話に「文章なんて一度も書いたことがないよ」と正直に告白することは難しくはなかった。わたしは「文章を一度も書いたことのない愚かな元ドラマーがプロのライターになれるわけがない」と言うべきだったのかもしれない。

 もちろんライターになる覚悟なんて持ち合わせてはいなかった。けれども、雑誌の編集の現場にはそれなりの興味を持っていたし、音楽にも詳しいであろう年長の編集者と会って話すだけでも楽しいかもしれない、と思った22歳の能天気な元ドラマーは「いいよ。会ってみる」と答えた。

 それがすべての始まりだった。「終わりの始まり」という説もあるが。

 その後、ライター稼業の最初の10年間は試行錯誤の連続だった。口が裂けても出来がよいとは言えない糠味噌仕様の頭脳で思いつく限りの、さまざまな実験や冒険を懲りずに繰り返してみたものの、みずから成功したと自画自賛できるような試みは皆無に近い。けれども、キャリア10年目を迎えようとしていた或る日、話せば長い疑似ゲシュタルト崩壊によって我が心のベルリンの壁(なんだ、そりゃ?)が脆くも崩れ落ちて、それまで筆者の心と身体を縛りつけていた冥界の鎖が解けたかのように突然、ほぼ全面的に解放された。

 「とか言ってるけどさ、それって開き直っただけじゃないの?」という意見もあるだろう。まあ、そう思われてもこちらは一向に構わないのだが、実際にはそうじゃないことを本人だけはよく知っている。あの瞬間、ライターとしての自分が何をしたらいいのか、ようやく気がついた。そして我ながら愚鈍すぎるほど鈍感な間抜け野郎だと呆れ返ることになるのだが、それについては近いうちに書くつもりだから、ここでは書かない。また別の機会に。

 それからのことは省略してもいいだろう。いつかどこかで書く機会もあるかもしれないが、楽しいこともたくさんあったし、辛いこともたくさんあった。まあ、どちらかといえば後者が多かった。いずれにしても、こんなに長く続けるつもりはなかったが、他にはできることが何もなかったのか、あるいは転職するのが面倒だったのか、気がついたら36年の月日が経過していた。

 バンドマン時代からのコネクションも多少はあったから、ライターとしても音楽業界の仕事が多かったことは間違いないけれど、映画や小説や詩やアートについて書いた文章だって決して少なくはなかったし、コピーライターとしての広告の仕事だって主に生活のために引き受けていたのだから、雑誌やラジオで「音楽評論家」とか「音楽ライター」とかいう肩書きを押しつけられるのは居心地が悪かった。そもそも肩書きというものが好きになれないのだが、どうしてもそれが必要なら「ライター」でいい。敬愛するジャック・ケルアックやウィリアム・バロウズもそう名乗っていたはずだ。

 本人だけはいまでも「バンドマン」のつもりなのだが。

 ライターとしてのわたしはそれほど頑迷でも固陋でも偏狭でも偏屈でもなかったのではないかと自分では思っている。なにしろ書かなきゃ喰っていけないのだから、大抵の依頼は無条件で引き受けた。心と身体が拒絶反応を起こして全身が痙攣するほどやりたくない仕事や脳や身体が二つ以上なければ物理的に不可能な仕事は断わったが、だからといって楽しい仕事ばかりを優先的に引き受けてきたわけでもない。むしろ逆だ。さまざまな障害物との無謀な衝突を性懲りもなく繰り返し、七転八倒しながらも辛うじて生き延びてきた。

 辛うじて生き延びてはきたものの、急性大動脈解離とかいう厄介な病気と三度の外科手術のせいで昨年は一年間を棒に振った。バンドマンとしても、ライターとしても、そして、ひとりの地球人(たぶん)としても、ずっと不安定なステージの上で不器用に踊り続けてきたけれど、さすがに今回だけはアウトの確率が高かった。今度こそマジで死ぬのかとも思ったが、悪運だけは悪魔的に強いのか、またもや生き延びてしまった。生き延びてしまったのなら、さらに生き延びるための、つまり生活のための、金を稼ぐ仕事をしないわけにはいかない。

 だけどまあ、幸運にも生き延びることができたからといって、有り難い依頼主の皆様が親切に待っていてくれるわけじゃない。仕事がないのなら廃業するという選択肢もあるのだろうが、みずから大声で「引退宣言」するような類の職業でもない。自分ではあまり想像したくはない近未来だが、たとえ金にならなかったとしても、「きっとおれは死ぬまで書くのだろうな」とも思う。

 そして、文章を書き始めてからのほうが人生はずっと長い。


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