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一年

一年が経った。
長かったか、短かったか問われれば、しばらく悩んでから、短かったと答えると思う。
大抵の場合、自分がその時間の流れの中にいるときには、その流れが早いか遅いかなんて意識していないように思う。過ぎ去った流れを改めて振り返ってみた時に、こんなにものスピードで時間が流れていたことに驚くのだ。

最初の頃は、いつも起こされていた時間、だいたい午前三時から四時頃に自然と目が覚めて、鳴き声が聞こえるような気がした時もあった。ただ、人間の順応性は残酷なことに、次第にその習慣を忘れて、そういったイベントがない生活に慣れていってしまう。つまり、深夜に目が覚めることは、今となっては、ほとんどなくなってしまった。
一方で、寝床だったり、遺骨と周りに飾ってある写真は毎日眺めている。その度に、亡くなる前は辛かったろうなと思いを馳せる。自力で起き上がることができず、あちこちに床ずれができていた。あれだけがっついていたご飯も満足に食べられなくなり、身体はみるみるうちに細くなっていった。たぶん、目もほとんど見えていなかったと思う。目も見えず、身体も動かせない状態で、夜な夜などこにいるかわからない自分達に必死に呼びかけていたのだ。
もっとできることがあったんじゃないか。知らず知らずのうちにそう考えていて、後悔、無念の大きさに改めて気付かされる。

失うことを今まで以上に恐れるようになった。人間であれ、犬であれ、猫であれ、遅かれ早かれ必ず別れがやってくる。「永遠」なんてものは存在しないのだから。
「永遠」というものが存在しないということは、幼い頃から頭ではわかっていた。だから、別れがやってきた時の想定は自分の中で相当大きなものと想定していた。けれど、そんな想定はなんの足しにもならず、軽々とその大きさを超えて襲い掛かってきた。
多くの人は、「時間が解決してくれる」「次第に慣れる」と言うけれど、他人の心の中を自分だったり、平均だったりと同様に語ることはできないはずだ。心の中なんて、他人からわかるものでもないし、ましてや自分自身ですらちゃんとわかっているのかすら怪しいのだから。
時間の流れの中で、いつか別れを迎えてしまうことが決まっているのであれば、端から他者との関係なんて築かなければ良いし、物だって持たないようにすれば良い。毎度毎度発生する喪失感によるダメージに耐えられるほど、タフにできていないのだ。というよりも、毎度毎度そのダメージに打ちひしがれていた方が健全な気もしている。
始まっていなければ終わらないし、持っていなければ失わない。あとは、今まで持ってしまったものたちとの別れが待つばかり。

ふと、スマホの写真フォルダを見返す時がある。自分が撮影しているものばかりで、一緒に写っているものがないことに寂しさを覚えた。もっと一緒に写真を撮っておけばよかったと思うのだけれど、飼い主に似たのか写真を撮られるのが好きじゃなかったらしく、大人しくフレーム内に収まってくれるようになったのは、それこそ歳を取ってからだった。歳をとってかなり丸くなり、抱っこもさせてくれるようになった。嫌がっていたのかもしれないけれど。最期の瞬間に手を握って一緒に過ごせたことは幸せなことだったと常々思う。

きっと自分の捉え方、心の持ち方次第なのはわかっているけれど、この一年でしっかりと向き合ってこないまま、ダラダラと時間だけを消費してしまった。その結果が今なのだと思う。できる限り目を逸らして、悲しみから心を遠ざける。それがダメだとは言わないし、むしろその方が自分らしくもあるように思う。

一年が経った。
遺骨はまだ家に置いてあって、いつでも目に入るところに写真と一緒に置いてある。自分が死んだら同じところに埋めてもらうのだ。誰にお願いするのかはわからないけれど。
習慣は時間が解決してくれるかもしれないけれど、心の中はそう簡単に時間では解決できない。いかに向き合って、受け入れ、整理するか。そういうことだとは、これもまた頭ではわかっているけれど、自分がわかっているほど簡単なものじゃないこともわかっている。それに、整理とかそういう簡単な言葉で片付けてしまいたくない気持ちもある。色のついた水がゆっくりと境界を無くして、溶け合っていくように、そんなふうに考えていきたい。整理、解決してゼロになることはなくて、ずっと自分の中に残り続けるように、一緒に溶け合って、言葉にできないこの感情と共に生きて、RPGの毒ダメージみたく、ダメージを受け続けながら死んでいくことを望んでいる。

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