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【エッセイ】母の手作り弁当

 『母の手作り弁当』

 この言葉を聞いて、どのような印象を受けるだろうか。
 『母』を『お母さん』に変換すると、いかにも小学生の作文の題名にありそうだ。そしてその作文はきっと「お母さん、いつもありがとう」で締め括られる、感謝の文章だろう。
 イメージする画は、子供のために、誰よりも早起きをして、台所で包丁を叩く母の後ろ姿か。どれだけ疲れていても、どれだけ眠たかったとしても、休むことなく、毎朝必ず。学校に行きたくないと、ごねた日も、反抗期で声を荒げてしまった日も、喧嘩した日も。朝起きれば、巾着に包まれた弁当が、母の手作り弁当がテーブルの上にきちんと用意されているのだ。
 父親と子供が弁当箱を取り間違えてしまい、子供は量が多すぎ、父親は量が少なすぎて困ってしまったり。結婚式、新婦の両親への手紙の中で、学生時代の母親の手作り弁当について触れ、それを聞いている母親がぼろぼろと涙を流したり。そんな胸の温まるようなエピソードが次々と湧いてくるかもしれない。

 うん。やはり『母の手作り弁当』という言葉には、どこか素敵なエピソードを連想してしまう、そんな魔力がある。
 そして、それは、あながち間違いではないだろう。感謝とか絆とか、家族の愛とか。そんな言葉がピッタリはまるエピソードを実際に持っている方も多いのではないだろうか。
 だけど、あえて今回お話したいのは、そういうことではない。一風変わった、僕の『母の手作り弁当』の話だ。


 先日、近所を散歩していると、ラザニア専門店なるものを見つけた。
 最近は、食パンやポップコーン、味噌や生姜など、様々な専門店がブームなのだろうか、お昼のワイドショーなんかでも、行列ができている様子を芸人がレポートしているのをよく見かける。
 はえー、ラザニア専門店か。どんなものでも探せば専門店はあるものだなぁ。パスタでもなくリゾットでもなく、ラザニア、というところが、いいじゃない。なんとなくチョイスが渋い気がするのは僕だけだろうか。
 店先に出してある、チョークボードに書かれたメニューをみてみると、見事に商品はラザニアだけのようだ。さすが専門店。専門店といいつつ、サイドメニューをみると実は他の商品もあるんです、という、なんちゃって専門店ではないようだ。商品はソースの種類が違うラザニアだけ、あとはドリンク、という徹底ぶり。こだわりを感じる。
 ちょうどお昼時、お腹も空いている。せっかくなので、一番人気だというミートソースのラザニアをテイクアウトすることにした。おしゃれなカフェのような落ち着いた店内。感じの良い店員さん。それほど待つこともなく、ラザニアを受け取り、ほくほくした気持ちで、僕は家路についた。

 家に帰り、袋をあけて、中身を取り出す。出てきたのは、少し深さのある、プラスチックの無機質な、食品用の容器。蓋が透明で、下の容器が黒。もちろん模様も何もない。蓋を開けると、目に入るのは当然だが、ラザニア。これがまたインパクトがある。横の方に彩りのための野菜やポテトがついているわけでもなく、そこにあるのは、ラザニア。それだけ。
 ふむ。こだわりを感じる。しゃらくせぇ。うちは味で勝負するんや! というメッセージ性を勝手に感じた。
 きっと店内で提供されるときには、皿の上に盛り付けして出てくるのだろう。あのおしゃれな店内を思い返した。もしかしたら、ラザニア専門店なんて、けっこう珍しいものだから、綺麗に写真を撮れば、インスタ映えすらするかもしれない。そういえば、店内で食事している人は、女性のグループが多かった気がする。
 しかし、今、自分の目の前にある、このラザニアはインスタ映えとは程遠いものだ。無機質なプラスチックの容器に入れられ、おしゃれでも何でもない自分の部屋で食べるそれは、いうなれば、作りすぎちゃったからタッパーに入れて保存しておいた、残り物のラザニアに近い。うん。いや。「ラザニアを作りすぎちゃった☆」みたいなアメリカのドラマでありそうな展開が起きれば、の話だが。ここは、日本だ。
 
 なにはともあれ、味はとても美味しかった。さすが専門店、といったところである。皿の上に盛り付けられていても、プラスチックの容器であろうと、タッパーであろうと、味は変わらず美味しいものだ。ぺろりとラザニアを平らげた。うまかった。しかし、お腹を満たした僕は目の前に置かれた、掬いきれなかったミートソースが残ったプラスチックの容器と、先の方がオレンジになったプラスチックのフォークと、それから口元を拭い、くしゃくしゃに丸められた紙ナプキンを見て、思い出していた。それは記憶。違和感と、わずかな羞恥心と、滑稽さ。ぼんやりと散らばっていた僕の記憶は、ギュッと凝縮されて、その凝縮された雫の一滴が頭の中にぽつんと落とされ、じわっと、広がっていき、当時の記憶を呼び起こす。母を傷つけてしまった事実。僕はそれを、ぼんやりながらも、覚えている。


 僕が通っていた中学・高校は基本的に弁当を持参することになっていた。中高一貫校だったので、6年間システムは同じだ。4限の授業が終わると、担任の教師が教室に来て、生徒と一緒に弁当を食べる。よく学園もののドラマなどであるような、仲のいいもの同士で席をくっつけて、ということは禁止されていたが、私語厳禁という厳しいルールがあったわけでもなく、各々が自分の席で前を向いて、それぞれの弁当を近くの席の生徒同士で喋りながら食べるという具合であった。担任の教師は、教室の先頭にある教卓で弁当を食べるので、必然的に生徒全員と向き合う形になる。そのため、割と若くて生徒に人気のある先生が担任であったりすると、前の方に座る生徒は、先生と喋りながら弁当を食べていたりしていた。一応学校には売店があり、そこで昼食を買うことも許可されていたが、置いてあるのはわずかな種類の菓子パン程度だったので、ほとんどの生徒は弁当を家から持参してきていた。
 
 さて、ここで少し話は変わるが、僕の母はとても料理が上手だ。家族だから贔屓目に見ている部分もあるかもしれないが、それでも上手いと思う。また、特定の料理が上手! という感じではなく、次から次へ新しい料理に挑戦するという具合であった。パスタ、ペンネ、ラザニア、ラタトゥイユ、アヒージョ、ビーフストロガノフなどなど。見事に横文字の料理が食卓には並んだ。もちろん肉じゃが、チャーハンというアジアの料理を作ることもあったが、「お袋の味は何ですか?」と聞かれれば、「トマトソースのスパゲティです」と答えてしまうくらいには、料理の傾向に偏りがあった。母は日本酒や焼酎よりも、ワインやシャンパンを好んだ。母は非常にハイカラな人である。

 弁当、といえば日本人であれば想像する定番があるだろう。白飯に梅干し、卵焼きにウインナー、プチトマトや気持ちばかりのレタスと、きんぴら、ひじき。定番も定番。梅干しがふりかけに変わったり、冷凍食品のクリームコロッケや唐揚げが入っていたり、その程度のマイナーチェンジはあるだろうが、おおよそ同じようなものを想像するのではなかろうか。
 さて、僕の弁当箱はタッパーであった。そう。いわゆるタッパー、食品を密閉して保存できるあれである。ある日の僕の弁当は、タッパーいっぱいのビーフシチュー。ある日の僕の弁当は、タッパーいっぱいのペンネグラタン。また、ある日の僕の弁当は、タッパーいっぱいの中華あんかけどんぶりであった。そう、僕の母はハイカラな人であるが、同時にとても豪快な人だった。僕の弁当は定番とは程遠いハイカラで豪快な弁当だった。
 たまに、おにぎりとおかずという一般的な内容のこともあったが、容器は相変わらずタッパーなので、蓋をあけたときに、今日は普通やな、と逆に驚くほどであった。中学生の僕は、母の作る一風変わった弁当を毎日持参し、学校に通い、ハイカラで豪快な食事で成長した。

 そして、僕が高校にあがってすぐ、事件が起きた。すでに書いたが、僕の学校は中高一貫校だったので、クラスメイトもそこまで変わりがない。担任も中学2年の頃に歴史を習ったことのある三十代前半の体育会系の男の先生で、目新しさもなかった。
 くじ引きでの席決めの結果、僕の高校生活を始める席は、一番前のど真ん中、教卓の目の前。“特等席”と揶揄される席であった。参ったなあ。高校生になりたての僕は、机の下で本を読んだり、居眠りしたりできなくなるなあ、となんとも不真面目なことを考えていた。
 高校の初日は、始業式と簡単なホームルームで大まかなこと(席や係など)を決めるだけだったので、午前中で学校は終わった。事件は2日目に起きた。4限の授業が終わり、昼飯の時間。僕はカバンから包みを取り出し、机の上におく。いただきます、の号令で手を合わせ、包みをほどき、タッパーの蓋を開ける。その日のメニューはラザニアだった。そう、ラザニア。タッパーの中に入っているのは、ラザニア、それだけ。なかなかの迫力だ。だが、僕は慣れたもので、ふーん今日はラザニアか、くらいの感想しか抱かない。そのとき、僕の目の前から声が上がった。
「おまっ、すごいな、それ」
 担任の教師は口元を手の甲で押さえながら、少しむせたのか軽く咳をして、そう言った。
 へ? 僕にとって、タッパーいっぱいの一品料理が弁当なのは日常だったので、担任の言う、すごい、が何のことなのか一瞬理解することができなかった。すると、担任の言葉を聞いた周りの生徒が、僕の弁当を無遠慮に覗き込む。
「ほんとだ、すげ」
「やばいな、うける」
 各々感想を口にすると、自分の席へ戻り、それぞれの弁当に再び取り掛かる。
「いつも、そんな感じなんか?」
 担任は目の前に座る僕に聞く。
「いや、いつも……じゃないですけど」
 嘘をついた。僕は、そのとき、自分の弁当を強烈に恥じた。担任も、周りの生徒も、決して蔑むような物言いではなかった。むしろ担任に関しては、「いつも、そんな感じなんか? 美味そうやなぁ」と続けそうな物言いであった。だが、そのときの僕には実際に彼らがどう思っているのかは重要ではなかった。反射的な羞恥は熱となり全身を駆け巡った。気にしていない風を装いつつも、自然と頭は俯き、左手で担任からの視線を遮るように、急いでラザニアをかき込んだ。熱を帯びた頭に浮かんだのは、なんでこんな変な弁当作るんや! という母親に対する、怒りであった。

 家に帰るなり、僕はタッパーをテーブルに叩きつけ、声を荒げた。
「こんな変な弁当作るなよな!」
「なに、どうしたのいきなり」
 台所で何かを刻んでいた母が手を止めた。
「こんな変な弁当作るなって言ってんだよ!」
「何かあったの?」
「何もないよ! 普通の弁当にしてくれって言ってんの!」
 母親は僕の物言いに怒ることもなく、ただただ、僕の剣幕に困惑しているようだった。
「普通の弁当って何よ?」
「普通っていったら普通だよ!」
 最後にそう言うと、僕は、騒ぐだけ騒いで、あとはほったらかしで、自分の部屋に駆け込んだ。今考えれば、なんとも哲学的な質問である。普通の弁当とは何か。ふむ、答えは果たして存在するのだろうか。

 その日の夕食は、なんとも気まずい空気が流れたが、次の日、朝起きると、テーブルの上には弁当が用意されていた。それはタッパーではなく、二段の弁当箱であった。父が昔使っていた物らしい。母は何も言わなかった。
 そうして、この事件のあと高校卒業まで、僕の弁当は“普通”になった。下の段は白いご飯。真ん中に梅干し、ときどきふりかけ。上の段は、卵焼き、唐揚げ、ちくわにきゅうりを入れたやつ、つくねの3個の串のやつ、ほうれんそうのおひたし。あれから母は毎日、“普通”の弁当を作ってくれた。


 そして、今。僕の目の前には、あの日のタッパーを思い出させる、ラザニアを食べ終わった後の無機質なプラスチックの容器がある。
 今だからわかる。あのとき、なぜあんなにも恥ずかしかったのか、怒りが沸いてきたのか。根元にあったのは、きっと恐怖だ。高校生という多感な時期、学校という狭いコミュニティーの中、みんなという枠組みから、はみ出すのが怖かったのだ。今思い返しても、担任の先生や周りの生徒に、僕を、僕の弁当を馬鹿にしてやろうという思惑は感じ取れなかった。自意識過剰だ、と言われてしまえば、それまでなのだが、当時の僕は、みんなと違うことに強い恐怖を感じていたのだ。それから、あの日。何も言わなかったが、母を傷つけてしまったということ。今なら、わかる。

 さすが、ラザニア専門店のラザニア。パッケージに関わらず、美味かった。なんちゃって専門店とは、わけが違うね。だが、中学のときに食べた、母の手作りの、タッパーいっぱいの、あの迫力のあるラザニアも負けないくらい美味しかった。
 今、食べたいな、と思うのは、高校時代の“普通”の弁当よりも、中学時代の母のハイカラで豪快な弁当である。
 毎日、ほんとうにありがとう。美味しかった。実際に口に出して言ったことはないけれど、いつか面と向かって母に伝えられたらいいな、と思う。それからあの日の話も。何も聞かないでいてくれて、ありがとう、と。



 一風変わった僕の母の手作り弁当の話を書くつもりだったのに、なんだか少し、いい話っぽくなってしまったかもしれない。
 やはり『母の手作り弁当』、この言葉には、とてつもない魔力があるのかもしれないね。 
 
  

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