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荒れる川を39年間に渡り改修した人々の記録。夏目漱石の友人が筆を取る。 〜中山吉長頌徳碑

ここは川口市と草加市の境。そこを流れる伝右川から撮った景色です。

川の水は濁っていますが、改善されてきている様子です。

上の写真は吉長橋から撮影。

さて、橋の脇にとても大きな碑がありました。

中山吉長頌徳之碑 若槻禮次郎書

題額の書者は第二十五代内閣総理大臣の若槻禮次郎。
総理大臣が書いたってだけでなぞにテンション上がります。

線が太くしっかりとしてます。筆者の真面目さが伝わります。

本文は管虎雄の書

本文は管虎雄の書です。
夏目漱石とも交流のあった人物。書家の側面もありますが、ドイツ語学者でもあったそうです。

本文はやや扁平の楷書体。
漢字カタカナ混じりで書かれています。こういう混じり文は今ではあまり使わないので、新鮮です。
漢字とカタカナは共に直線の構成が多いので、表現しやすいかもしれませんね。
粘り気のある線で息長く書かれています。

撰文は杉敏介。「吾輩は猫である」のモデルであった人物だそう。
夏目漱石関連の人物が2人も同じ碑に関わっているのは不思議です。

石工は関鶴羽。当時一番有名と言ってよい石工で、他にも優れた作品も多く手がけています。

この碑は当時の第一級の人が携わった碑であり、それだけこの碑の人物:中山吉長氏に対する評価の高さがわかります。

 正三位勲一等男爵若槻禮次郎題額
君ハ明治五年埼玉縣北足立郡安行村ニ生ル同三十一年村長ニ推サレテヨリ勤績四十年ニ及ビ□ニ村民ノ福祉ヲ念トシ百般ノ施設為ササルナシ就中用排水路ノ改修ハ君ガ千載不朽ノ功績ナリ抑モ本村ヲ貫流スル傳右川ハ源ヲ野田村ニ發シテ綾瀬川ニ注グ蜿蜒五里餘ノ水路ナリ多年荒廃シテ泥土皮床ヲ埋メ或ハ蘆□ノ繁茂ニ委シ或ハ蓮根慈姑ヲ栽フル者アルニ至ル故ニ一朝豪雨致シハ沿岸忽チ氾濫ノ厄ニ遭ヒテ渟浸數日ニ亘リ被害甚大ナリ君夙ニ治水ヲ以テ急務ト為シ百万有志ヲ勤説シテ同三十二年遂ニ野田大門戸塚新田安行新郷谷塚草加八幡ノ九町村水利組合ヲ組織シ水路ノ改修ニ心身ヲ傾倒スルコト三十九年一日ノ如シ今ヤ其ノ功漸ク成リ流域二千四百餘町ノ耕地ハ昔日ノ面目ヲ一變シテ肥沃豊穣ノ美田ト化シ聯合町村等シク其ノ□利ヲ享ク君身ヲ持スル恭謙志ヲ操ル堅實洵ニ衆□ノ儀範タリ是ヲ以テ昭和五年擧村一致君ノ壽像ヲ建設シテ其ノ徳業ヲ頌揚セリ又同九年特別大演習ニ單獨拝謁ノ殊恩ヲ蒙リ同十年新宿御苑ノ觀櫻會ニ召サルルノ光榮ヲ擔ヘリ以テ君ガ治績ノ大ナルヲ知ルベシ茲ニ傳右川水路改修ノ完成ニ當リ碑ヲ建テ功ヲ勒シテ芳ヲ後昆ニ傳フ
 昭和十二年十二月 従三位勲三等 杉敏介撰 従三位勲三等 菅虎雄書

碑文

カタカナ混じりで少し読みにくいですね。
Bardの力を借りつつ、小説風に意訳してみました。

安行村を貫流する五里余りの水路に伝右川がある。令和の今、生物の成長を育む穏やかなところである。しかし、昭和初期頃までは荒廃した川であり、蓮根やクワイが栽培できるものの、泥や藻が堆積したり一度豪雨が降ると、沿岸が氾濫し、数日間にわたって甚大な被害が及んでいた。

明治五年、この安行村に中山吉長という青年が生まれた。吉長は、幼い頃から、伝右川の氾濫に苦しむ村人たちの姿を見て育った。そして、いつか伝右川を治め、村人たちの生活を守りたいという夢を抱くようになった。

吉長は、明治三十一年、安行村の村長に推薦された。村長となった吉長は、まず、伝右川の治水を最優先課題とした。そして、百万有志を説得して、野田、大門、戸塚新田、安行、新郷、谷塚、草加、八幡の九町村水利組合を組織した。

吉長は、水利組合の総代として、水路改修に心血を注いだ。しかし、荒れ狂う伝右川の改修は、容易なことではなかった。吉長は、困難に直面するたびに、村人たちに励ましの言葉をかけ、力を合わせ、改修を進めていく。

そして、三十九年の歳月をかけ、ついに伝右川の改修は完成した。改修された伝右川は、水が流れるようになり、氾濫の危険はなくなった。

伝右川の改修は、村人たちの生活を大きく変えた。農作物が豊かに実り、村人たちは豊かな暮らしを送ることができるようになった。吉長の功績は、村人たちから深く感謝され、その名は後世に語り継がれることとなった。

意訳

川口市史に伝右川の記載として「大雨洪水の際に土砂が溢れ出て、悪水を吐き出し、田畑を腐らせる。」という記述がありました。

冒頭で、「濁っている」といいましたが、昔からだったとは驚きです。普段の水量が少ないからでしょうか?その辺り詳しい方いたら教えて欲しいです。

それにしても、当時の工事環境もあれど、改修に39年かかったとは驚きです。
そのおかげで、水害に悩まされずに過ごせることに感謝ですね。

肝心の中山吉長氏はこの碑にも書いてあるように長く村長を務めただけでなく、柳剛流中山派の三代目で、中山桑林の子供に当たる人物です。

何年か前に話題に上がった「桜を見る会」。その前身が観桜会だそうですが、それにも参加されたと碑文にあります。
わざわざ文にして残しているほど、観桜会に招待される意義が大きく、それをもって、「君ガ治績ノ大ナルヲ知ルベシ」と語られます。

これだけの人物が碑に携わったのは治水に成功したからだけでなく、吉長氏の影響力の高さもあることでしょう。
冒頭の橋の名前はこの碑から来ているのでしょうね。

碑の隣に庚申塔もありました。文化7年作。
よくよくみたら庚の書き方が特殊です。

アクセス
〒340-0048 埼玉県草加市原町3丁目14−41 ウエルシアそば

参考文献
『埼玉県市町村誌 第一巻』 p160
『川口市史近世資料編2』「126 伝右川浚普請につき原村ほか歎願書」

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