結局コミュニケーション

あなただけしか見えない、私のことだけを見てほしい。
向かい合って好きだとかこうしていることが幸せだとか、こちとらその感覚でもういないのだけど、冷静な自分がふわふわとした自分と契約していて透明な鏡で見ている感じ。または逆。冷静なほうが本心か。

好きは好きなんだろうけど、なんというか。

いや、もうそうでもないか。


私にはあなたしか。そういう時期は事実としてあったが、他の悩みごともあり言葉が左耳から右耳へと通り過ぎる。
口をついて出た甘い言葉がものすごく嘘だった。でも嘘と気づかれないようにというか、気づかれていてもいいのだが
本当の話を告白しないことが配慮なのだと。
ここまできて何の配慮だか。


冷静な自分が恐ろしいが、なんというかね
こっちに気持ちの置き場、比重がない。


他のことやコミュニケーションが充実していれば、仕事やそれ以外で必要とされていれば、
考えること、自分主体で決めること、
はたまた自分ではどうにもならない、周囲が勝手に変わることが増えれば
つまりはプライベートや仕事でやることがいっぱいで充実しているとそれだけで楽しいことを実感してしまった。


それが一時的なものとしても、不思議な充足感がある。


ひとりで考えることや任せられることが増える現状に嫌々向き合ってはいたけれど、
こういう役回りは向いているなと思う箇所もあったりして
出来る領域が増えていくと自信にもなるし、次はああしようこうしてみようとアイデアも浮かぶし ついつい恋愛や異性への連絡、対応を後回しにしてしまうことに。


結局コミュニケーションなんだと思う。
仕事を依頼してくださる方のことを考えて、結局仕事以上にその先の「人」を見てる。


人のことを考えて、喜んでほしいとか力になりたいとか思う時間が増えれば
それがどんな関係であろうが私は満たされてしまうのかもしれない。
というより異性のことを考える暇がなくなってしまう。寝かせているLINEがいろいろあるのは忘れていないし、あとで「やっぱりそんなに適当に自分主体で気まぐれに接しているからそっぽむかれたのかな」と思う日がきたら嫌なのだけど、それでも
なぜこんなにも異性と恋愛と結婚?への優先度が全然高まらないのだろう私は。
そしてそのぐらいの気まぐれさのほうが「ある種」の関係性の人には嬉しいのかもしれない。
うーん、でもそこで駆け引きをしているつもりもないし 誰のことも愛していない(動物のことは愛している)ってことなのかな。
どんな状況でもあなたがいてほしいときが確かにあったのに。間違った自立心なのか、単に飽きっぽいのか。


まあ彼氏とはほとんどのパターンで長く続いてこなかったから、変わってないんだろうな。
そして変わる気もないのかもしれない。

感情の何かが欠落しているのだろうか。ビッグラブ的な気持ちを世界に対して抱くことはあるのに、メールは何度も何度も何度も推敲するのに、自分自身の根っこは冷たいまんまなのかな。

というより昔より夢を見ない。
ずるいタイプはいつまで経ってもずるいし、言葉より行動だと思うし、自由でいいところだけ見せている浮気相手よりもたぶん本気で生活に向き合っている人を私は尊敬する。

自分がどちらとコミュニケーションを取って、どんな日常を送っていきたいか、に尽きるだろうな。

そうしてまた私は私を大切にしていく。
その気持ちに傷つく人も気がつく人も、たぶん誰もいない。
あの頃も思ったよ。
私以外のすべてを手に入れている人が私を失ったとしても、勿体なかったなと思うのはほんの一瞬。
悲しむとか傷つくの類ではない(し、もし悲しくてもそこは勝手に立ち直ってほしい)。
人によってはずっと憶えているだろうけれど、記憶の中に自分がいることすら不思議な感じ。
あの人のように本が繋いだ縁じゃなければ、思い出すこともなくなるかもしれないね。


ロマンチックが消えてしまった。
そこだけは残り続けると思っていたのに。

でもそれがいい。正しいからではない。
そうしたいからそうする。
はちみつの香りは置いていく。


新しい香りとコミュニケーションの合図。
そんな日曜日がはじまった。

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