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いちびるラーメン、いちびらないラーメン

かねてラーメンが苦手だという方向で自己プロデュースを図ってきた。仕事先の人と食事をする流れになり、不本意にもラーメンを食べることを避ける、いわばリスクヘッジである。

カメラアシスタントをやっていたとき、取材先でのランチとなると、どうしても記者やカメラマンの意向が優先されるものだった。厳然たるヒエラルキーのもと、何度も望まぬラーメンを胃に流し込んできた。ジェル状のスープが麺にまとわりつく、もっともいやなタイプのラーメンを食べることもあった。過去のトラウマは、次第にお昼どうしよう問題への最大公約数的回答に対する「逆張り」と評されるような行動を生むに至ったのだ。

「アブラギッシュなスープが食道をコーティングするようで気持ち悪い」「ダクトから発せられる獣臭を浴びてまで、行列する理由が分からない」。それぞれのラーメンないしラーメン屋についての各論的な批判を、周囲の人はしつこいくらいに聞かされてきたと思う。しかし、いつからかそれを控えるようになった。

僕とて、なるべく人に嫌われずにやっていきたい。それも当然ある。蘭州牛肉麺、ビャンビャン麺といった中国麺を好むようになり(もちろん日本のラーメンとは趣きが異なるのだけど)、受け手によっては話の整合性が取れないと感じるようになったこともある。案外、まじめなのである。

が、それ以上に、特に好きでもないラーメンに関して、ゴニョゴニョと細かい私見をご開陳する自らに辟易したという点が非常に大きい。重箱の隅をつつくスタンスを40代、50代まで続けていくことに危機感を覚えるようになったのだ。面倒なおっさんになる未来は、可能な限り回避したい。面倒なおっさんに番付があるとするなら、せめて序二段くらいに留めたいというのが人情だろう。

ではなぜ、自分はこうもラーメンを毛嫌いするのか。ここのところに整理をつけたいと思っていたのだが、つい先日、友人と嫌悪感の薄いラーメンを食べていて、ようやくピンと来た。ラーメンという食べ物は、とかくいちびりがちなのだ。

どんぶりの外周を覆うチャーシュー、箸が立つほど粘度の高いスープ(=ジェル)、重油流出事故のごとき背脂。表現のあり方が過剰であることに加え、教条的な態度で客に接する店も他業態と比較して少なくないだろう。いちびっている。確かにいちびっているのである。だが、よくも悪くもラーメンは所詮ラーメンでしかないのではないか。

その点、失恋から間もない彼と食べたラーメンはよかった。というのも、至極普通だったからである。飛び道具的なところが一切ない。ラーメンがイベント化しておらず、特別感がない。1000円超えも当たり前になるなか、そのラインを超えてくることもない。そして何より、いちびっていない。「最高の普通」とでもいうべきラーメンが、我々の目の前にあったのだ。

境遇的に似た部分のある友人と、どうでもよろしい話をしながらワシワシと食べ進める。「最悪、まずくても構わない。そういう店やね」との言葉を聞き、なるほどなとさせられた。本来、ラーメンというのは、それくらい肩に力が入っていない状態で食べるものではなかろうか。徹底的にいちびり倒し、ある種の権威と化した「ラーメン」なるものは、別個にカテゴライズされるべきではあるまいか。いや、もはや別の単語を当てはめるべきではないか。

ラーメンという言葉は、あまりにも多くの要素を包括する概念になってしまった。明らかにキャパシティを超えているのだ。結果として、消費者の認識と乖離する事態さえ生むようになった。細分化し、先鋭化する以上は、そこのところを上手に咀嚼し、表現すべきではあるまいか。そうした努力の先に、世界平和が実現されるような気がしている。

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