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人生は一枚のラブレターを書くようなもの



 三日三晩寝不足ですごした旅先からへとへとで帰宅した、昨年秋のとある深夜。

 W杯のグループリーグを突破した日本代表のクロアチア戦があるというので、サッカー好きのパートナーは準備万端でテレビ前に陣取っていた。熱々のお風呂に久しぶりに浸かって体がほろほろにほぐれて、たまには一緒にテレビ観戦もいいかあという気分になった私も、眠たい体を引っ張ってパートナーの横に座る。

 入場前の緊迫した選手たちの姿を、今にもくっつきそうな距離まで寄ったカメラが次々に映していく。計り知れない緊張とプレッシャーを一身に引き受けるときの体ってすごいなあ、と感心しながら、ふと思った。

 たった一時間四十五分後には、運命を分ける試合結果がでているんだよな。

 今この瞬間の私たちは知りようがないけど、試合結果はすでにあって、いつのまにかすぐそばまできていて、あっというまに今になる。それなのに選手たちは、今から全身全霊でボールを追いかけて走り回ってたたかって、私たちはそれを息をのみながら見守って一喜一憂する。
 たった一時間四十五分後のことさえ私たちはなにもしらないで、今という時しか生きられないんだな。人間ってすごいな、すばらしくて切ないな、可愛くていっしょうけんめいだな。

 でも、未来はもうある。たった今しらないだけで。

 ふとなにかそばにあったものがやさしく空中分解するみたいに、そういう感覚になることがある。どうしてそんなふうに思うんだろう。名前のないふしぎなこの感覚はいったいどこからくるんだろう。なにかによく似ているような気がするけど、なんだろう。

 ああそうだ、死ぬと分かっていて生きるのと、似ているんだ。

 いつか死ぬことを知っていながら生きる動物は人間くらいしかいない、となにかで読んだことがある。おまけに、それがいつやってくるのかはだれもわからない。そのことをふと考えてみると、けっこう無茶苦茶な筋書きを生きているんだな、と思う。よくもそんな設定で正気を保って生きていられるな、と。

 そして、必ず死ぬとはっきりわかってしまっている私たちがこの短い生涯を「よくやったな、たのしかった」といって閉じるために必要なものはなんなのか、考える。そのためにほんとうに必要なものについて。


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 寝不足の旅の最後に、沼津港にある深海水族館へ行った。世界初の深海生物をテーマにした水族館だった。もともと行くつもりはなかったが、昼ごはんを食べた魚介の店の近くにあって面白そうだったので入ってみることにした。数年ぶりの水族館は思ったよりずっとたのしかった。

 私たちの祖先は海の生きものだ。五億年も前の古生代からえんえんとつづいている命を私たちは今生きている。その命も長い長い地球の歴史のなかで「大量絶滅ビックファイブ」という70〜90%以上が一気に死滅する絶滅危機が、5度もあった。なかでも2億5100万年前のペルム紀末は最大の絶滅期で海洋生物で96%、全生物種でも90%以上が絶滅したらしい。そんなたいへんなできごとを経てなお生き残った命が今生きている私たちの源にある。

 そう思うと、私たちの体のなかには強烈な運をふくむ生き残るためのしぶとい命のプログラムみたいなものがどっしり備わっているんだなあ、と感動する。

 でも、たとえここまで繋がってきた命の歴史がどれだけしぶとく頑丈で奇跡のようなものだとしても、ひとりひとりの人生はその歴史を作る一部としてカウントするにはあまりにもちいさくて、流れ星より早くてあっというまで、たった今生きていたとしても次の瞬間にはもう死んでいるような、もっと言えば生まれのたか死んだのかさえ判別できないくらい一瞬のことにすぎないんじゃないか・・・とも思えてくる。

 そういう刹那を限界まで濃縮したみたいな命をたった今与えられているのが自分なのかと思うと、なんだかもう笑ってしまうほど全身の力がへなへなと抜けて、これ以上ないくらいスリリングで身軽な気持ちにもなってきて、急に視界がぱあっとひらけていく。

 この短い生涯はなにをするためにあるんだろう。生まれてきたのはなぜなんだろう。小学生のころから毎日しつこく自問自答していた。答えのないことを考えることが好きだった。考えすぎ、もっと楽に生きて、と折々でやさしい友人が言ってくれた。

 それでもなにかひとつは、生まれたからにはぜったいにしなければならないことがあって、そのために生まれてきたにちがいなくて、それがわからないで生きるのはすごく息苦しいと、いつも思っていた。大人になるにつれて、明確な答えはさいごのさいごになってもわからないかもしれないと思うようになったけど、それでも人生をどうにか有意義なものにしなくてはいけないという焦りはつねにあって、じたばたとあがいてきた。


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 ここ最近、できることなんてほとんどなにもないんじゃないか、生まれてきたのはなんのためでもないんじゃないか、とぷつりと糸が切れたみたいに、あきらめの雲が私のまわりにぷかぷか浮かぶようになった。なにもなくても、なんのためでもなくても、ただ生きていていい。

 結果を残すことよりも生まれてきた意味よりもずっと、今生きているということが大事になった。だからもう、結果のために肩肘張って過程を送らなくていい。ちいさな目標みたいなものは持っていると日々に張り合いが生まれるし、それがいつのまにか繋がって想像していなかったすてきなものになっていくということはあるけれど、基本的に力ずくでなにかをがんばってもどこかに無理が生じていくから、できるだけそれはやめたほうがいい。

 人はいつか死ぬ。それがいつかわからない。人生はいちどしかない。

 コロナ中に見た田坂広志さんの動画で語られていた三つの死生観を思い出す。この三つを分かっていながら生きていく宿命なのだから、がんばってがんばって苦しいままでいるより、好きなことをして好きだなあと思ったり、足りないより足りてると思ったりするほうがいい。それはもちろん、楽ばかりすることやなにかを誤魔化すこととはちがう。

 たとえば私なら、毎朝の味噌汁と炊きたてごはんさえあれば一日しあわせでいられる自分でいてもいい。それ以外には笑えるくらいなにも持っていなくてもそんな自分を好きだと思っていいし、人生がいつか思い描いていたようになんてぜんぜんすすんでいなくてもだれもわるくない。

 隣に住む認知症のおばあさんなら、「妹がこちらに住んでいるんだけれど、元気かしら?」とひと月おきにうちを尋ねてきても大丈夫。「元気だと思います、ここには今いないんですけど」と私がこたえると「あらそう。じゃあ大丈夫ね」と安心した顔でおばあさんが笑うので、私もすっきりしてドアを閉める。それで大丈夫。

 お金のことしか頭にない人が四六時中目をぎらぎらさせて獲物を狙っていても、かかりつけの医者がしんじられないくらい高圧的でも、しあわせになってほしい友人がいつ会っても世界を呪っていても、バスの運転手さんに降りる時にお礼を言ったらきれいに無視されても、庭の花が次々枯れてもいい。そこに邪悪な力は働いていないし、私もだれも、世界がほろびる一端も担っていない。

 きっと明日も陽がのぼるし、のぼらないのなら雨でも降るし、世界は私たちにわからないところでバランスを取ろうとしてくれるから、今をすっ飛ばして未来へいこうとか極端なことはせずにちゃんと地に足をつけていれば、そんなに大きくはまちがわないし心配はいらない。

 もともと人生はただ一枚の白紙だった。大人になるにつれてだんだんわかっていったのは、それがどうしたってよごれていくのが生きていくということだ。でも、よごれるといっても、他人によってよごされるのではなくて、自分で好きなようによごすことができる。

 憎しみや妬みや愚痴や後悔や失望でぐちゃぐちゃによごすこともできれば、一枚のラブレターをすっきり書きあげるみたいに愛でいっぱいにすることもできる。あることをないことにしたり、その逆をしたり、うそだけはつきたくないけど、どのみちペンを握るなら、そしていちどきりしか書けないのなら、私はラブレターのほうがいいなあと思う。とにかく、自分で自分に贈るのだから、もらってうれしいものがいい。
 
 だって、いったいなにをしにこんな遠い星まで来たのだろう。答えはもういらないけど、すくなくとも愚痴を言いにきたとはどう考えても思えないし、他人の人生をいいなあと思うためにきたというのもつまらなさすぎるし、失望で胸をいっぱいにしたままうごけないでいるためでもないはず。
 
 ここへきたのは、二度とおなじことのない瞬間を味わうため。変化という時間そのものを体験するため。朝日をみるため、青い空に抱かれるため、おいしいものを味わうため。どんなことも糧にするため、悲しいことがあればいつか立ち上がるため。好きな人とお茶をするため、好きな人の笑顔をみるため。ひとりじゃないとだれかに声をかけるため、どんなときも生きていることのよろこびに気がつく心をわすれないため。

 そういうことをまっしろの紙に、愛のインクで、地味にでもゆっくりでもひとつひとつ書いていくことができれば、いい人生だったと思えそうな気がする。結果はすぐそばにあるかもしれないけど、結果のために今があるわけじゃない。今は今のためにしかない。だからサッカー観戦にも毎日を生きることにも夢中になれるのだろうし、今をどうすごすかで、すでにある結果がまったくべつものになったりもするから、おもしろいのだと思う。
 
 

 




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