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【エッセイ】 12月 8日

 「記憶」は時と世代によって薄れていく。
 そして、「記憶」は「歴史」となっていく。
 もちろん私は戦争を経験していない。しかし、「かつて戦争があった」ことを感じながら育ったと、今になって思う。「今になって」というのは、子どものころ、高・大学生のころ、それを実感しながら生活してきたわけではく、大人になってふと感じるようになったということである。
 母方の祖父は日中戦争から太平洋戦争にかけて数回徴兵されて戦争へ行ったそうだ。出征や帰還のときの話、わずかしか生き残らなかった激戦の話を、母伝いに私は聞いている。母が経験した空襲の話を聞くこともあった。
 まだ小学校に上がる前(1970年ころ)、商店街の真ん中の交差点のところに小さな橋があって、野菜をリアカーに積んで来て売る行商のおばさんがいたりする雑多な場所だったが、そこに白衣を着た片足のない人が立っていた。お金を恵んでほしいと、前にタライを置いていた。異様だった。
 そこには高豊(たかとよ)というスーパーがあり、そこを中心に書店、呉服店、パン屋、銀行、薬局、デパート… が丁字路の三方に広がる繁華街だった。人と車でいつも賑わっていたが、そこに立つ白衣の姿は異様だった。幼い私は、その異様さに、一緒にいた母に「あの人は何?」と聞いた。母は「戦争でケガをした人だよ」と教えてくれた。
 「傷痍軍人」という人だった(※注)。
 今は鳴らないが、広島、長崎に原子爆弾が落とされた日のその時刻、終戦記念日の正午には、市役所から1分間サイレンが鳴り、皆、黙とうをした。そのサイレンは、いつから鳴らなくなったのか。
茶の間(リビングではない)の話題に戦争があった。しばしばではないが、確かにあった。
 昭和40年代。高度経済成長を経て豊かな生活があった時期だが、戦争があった記憶や雰囲気が社会に残っていたのだろうと今になって思う。終戦から二十数年。若い世代にとって二十数年は長いが、大人にとっては短い。
 太平洋戦争が終わり78年。従軍した人はほぼいなくなり、私の両親のように子どもとして戦時を経験した人も少なくなった。傷痍軍人を見たのも、私くらいが最後であろう。4歳下の弟は見たことがないと思う。
 そうして、現実感は薄れ、「歴史」となっていく。かつての大戦は、源平合戦と同列のものとなる。その延長に、また繰り返されるのか?
 そうかもしれない。
 今日(12月8日)は太平洋戦争開戦の日である。

(2023年12月 8日)

※傷痍軍人(しょういぐんじん)
戦場あるいは公務中に後遺的な身体障害となる傷を負うか、病気になった軍人。体の一部を戦争で失うなどしたため仕事に就くことが難しく、国の補償を受けたが生活は困窮した。都会の人通りが多い駅前などに白装束で立ち、「お国のために負った傷」ということで、通行人から金銭を貰う人もいた。

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