「斜陽」太宰治

冒頭からしばらくは『幅広い』読者がページをめくる指を止めさせないように構成している。

私のような浅薄な無神経人間から、太宰治に心酔する高尚な方まで、幅広く。

太宰治の一見、華奢でとっつきやすい表現に誘われ突き進んでしまう。

そして最後から二番目の章、現代と同じ社会問題を、読み手は21世紀に居る自分のものとして捉える。

最後の章を書いた太宰治のパワーの源は何か。

太田静子たち女性がいたから、というわけでもないだろう。

他の文豪たちは女性を対象として、あるいは想像して描く。

1909年に生まれた彼が、なぜ、この主人公の心をこのように書けるのか。16歳年下の作家、平岡 公威が24歳で書いた23歳までの心の動きが思い出された。

1945年まで軍国主義の真っ只中。

へき地で生まれ育った私が先達に聞いた当時の話では、男が女の立場に立ち考えるなどあってはならない恥。

後に、都会の人たちは当時でも様々、と知って驚いた。

東京から700キロ以上離れた場所で生まれた太宰はこのような空気を理解していただろう。

太宰治が崇高な美の中で経済学、哲学、聖書、縦横無尽に織りなし、「卑屈な」私をひととき浄化してくれた。

「人間失格」を読んだ20代、太宰治を畏怖した。「走れメロス」の作家と気軽に読み始め、引きずり込まれ、人生で初めて、そういう行動を取る人たちの心の経緯を理解した(と思った)からだ。

それ以来、太宰が怖くて読めないでいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?