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【小説】空のお掃除

病を患い、知人の紹介で地方のこぢんまりとした旅館で静養する事になった私は、しかし、なかなかゆっくりとは出来なかった。パン、パンという銃を撃つ音が、毎日のように午後の空気に響いて、私は一生懸命に時間をゆっくりと動かそうとしているのに、それを許さなかった。お世話になっている身だから、この不満を共有できる人はおらず、故に私は一人、与えられた西向きの部屋で布団に潜って、けたたましい時間が経つのを待った。森の動物が死んでいくのを想像するだけで、私は耐えられない痛みを覚えた。そうすると、自分が弱っているのが強く自覚され、私は滅入った。
 2週間ほど、そうやって古びた旅館でキリキリしながら生活していたのだが、何が良かったのだろうか、身体は少しずつ健康的になっていった。起きたいとか、歩きたい、そして動きたいという意欲が、自分の脳からではない、身体から湧き上がった。それは思いの外私を強く動かし、山の寒い冬にも関わらず、私は毛布を追いやり、銃声が普段聞こえる方に向かった。旅館から出る時に、女将さんがびっくりした顔で私を見たので、やはり散歩はやめようかと思ったが、私が決断をする前に彼女は「いってらっしゃい」と東京の言葉で言った。私は引き返せなかった。
 この地方の道はどこも狭いものだったが、山の方に向かうと道は一層細くなり、ついに獣道になった。私は獣道というものを初めて見たのだが、ここを本当に私のボロボロの靴で通れるのだろうかと心配になった。また、少し歩いただけで自分がだいぶ疲れている事に気が付いた。引き返そう。そう思った。

 パン、パン。音がした。
 その音は、非常に近い所から聞こえた。木が邪魔をしていなければ、確実に目に入る範囲だった。撃たれたらどうしよう。不安になった。誤射というものが、世の中には存在するらしい。銃で撃たれたら、人間は一溜りもないと聞く。私は怖くなって、声を上げた。
「誰かいますか?」
 叫んだつもりだったのだが、小さな声しか出なかった。
「おいおい、そんな所にいたら危ないよ」
 現れたのは、ぼろ布で出来た服を身に纏った、細身で如何にも気弱な男性だった。彼は右手に、彼自身よりも重要そうな猟銃を手に持っていた。
「何を獲っているのですか?」
 私は気になっていた事を聞いた。獲物が狩られている姿を明確に脳裏に描きたいと、銃声を聞くたびに思っていたのだ。
「鷲ですよ」
「ワシ? あの、鷲ですか? 獲っているの、鳥なんですか?」
「そうです、鷲です。森の動物は、もうみんないなくなっています」
 彼は、私に対して異様に遜っていた。前傾姿勢を崩さず、両手は前で揃えていた。私が余所者だからだろうか。けれども、もしそうだとしても、彼の態度は、私には奇妙に感じられた。
「ずっと、これを?」
「はい、鷲が見えた日には、毎日しております」
「どうしてまた、鷲を獲っているのですか?」
「はい、鷲が私を攻撃したからでございます」
「攻撃?」
「はい、攻撃でございます。ある日私は、いつものように、この道を散歩していたのですが、その時、急に鷲が私の頭を掴んだのでございます。私の頭には、髪の毛がありませんから、鷲が何か食べ物と間違えたのかもしれません。けれども私には、それはとても恐ろしい事でございました。それからというもの、空に鷲が見える度に、ああ恐ろしい、怖くて、どうしようもなくなるのでございます。ですから私は、お掃除をしなければならないと思ったのでございます。それで今、このように鷲を撃っているのです」
「ほお。それで、鷲は獲れたのですか?」
「いえ、取れたら海まで持っていって捨てようと思っているのですが、どうも私が下手なのでしょうか、上手くいかないのです」
「そうか。つまり、お前は自分に迷惑を働いた鷲を一掃する為に、鷲を獲っているのだな?」
「はい、そうでございます。あの、まだ誰にも注意されてはおりません。あなたがもし注意されましたら、私は諦めようかと思います、はい。あの、どうか、お許しくださいませ」
「おお、土下座なんかするな。いい考えじゃないか。銃をよこせ」
「はい。勿論でございます。お手本をお見せくださればと思います」


 パン。



 ボロ布を着た人間が1人、見知らぬ山中に立っていた。彼は猟銃を担いでおり、鷲を獲っていたのだと言った。けれども、その地方に鷲などいなかったし、彼が泊まっていたという旅館さえも存在しなかった。彼は銃刀法違反で逮捕された。自分は怯えて勇気を出せなかったのだと言った。彼の人生に、勇気が必要な瞬間などありそうもなかった。

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