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産みたいこと、生まれたくないこと

反出生主義という考え方を昨年末に知った。
そして私自身がずっと感じていた違和感に名前がついた。私はまさに反出生主義だったのだ。

整形を決意した頃、まだ見ぬ自分の夫と子供のことをよく考えていた。
整形をして顔が変われば、仮に誰かに好かれたとしても、それは生まれたままの私のことを好きになってくれたということではなくなる。
私はまず、そこで得られない自己肯定感を受け入れなければならなかった。私は本来の私として愛されることは一生ないのだと、その事実を認めなければならなかった。
ただこれは私自身が望んだことの結果であって、悲観するつもりはない。整形せずに他人に愛されたとしても私は私を愛せはしないと分かっていたから、必要な対価だったと思っている。

次に、もしも今の私を(整形していることも含めて)好きになってくれる人がいたとして、私もその人を好きになって結婚などしたとして、そして子供を産むことになったとして、自分には絶対に似てほしくないなと私は思った。容姿も然り、性格も然りだ。私になど似てしまったら苦しませることになる。
しかも天文学的な確率で奇跡が起きて、容姿端麗で頭脳明晰かつ明るくて人に愛されるような子供が生まれたとしたって、その子が幸せになれる可能性はそれでも決して100%ではないのだ。
自分の子供を幸せにしてあげられる確証はない。
そう考え至った時に、私は初めて子供をいらないと思った。私の願望だけで産んでいい命などひとつもないのだと思った。

「子供が欲しい」「相手の子供を産みたい」「自分の家族を持ちたい」と言って、多くの人が母になり父になっていく。
そういう様を見て、なんて無責任なんだと私はいつも思ってしまう。
どれだけ大事に育てても、愛しても、完全に正しいことなどありはしないしその子が完璧に幸せになれることもないのに、一体どんな自信があって子供などつくるのだろうかと。あるいは明確な自信などなくて、薄ぼんやりとした希望的想像の中では幸せな家庭を築けたのかもしれない。

しかし、いつかその子が何かに絶望し、「生まれたくなかった」と思った時、彼らには何の責任も取りようがないのだ。欲しかったから産み、育て、数々の苦難を乗り越え、それでも彼らはその子の命に対して何の保証もできないのだ。
そして子を愛する親だからこそ、例えば「死にたい」という子供を引き止めたりする。そこにあるのもまた、彼らのエゴに過ぎないと私は思う。
そもそも生まれてさえいなければ、子供たちは苦しまずに済んでいた。子供たちを本当に苦しめたのは誰だったのか。その答えが、私の中では一つに決まってしまった。

私のような生まれたくなかった子供たちは、誰にも責任を取ってもらえないから宙ぶらりんになっている。
私に限って言えば、育ててくれた両親に感謝しているしその苦労にも報いたいと思うけれど、それより何より産んでくれなければ良かったのにと思ってしまう。美しいことも愛しいことも知らないままで私は良かった。悲しいことや苦しいことを知らずに済むなら、それで良かったのだ。
こんなことは間違っても両親には言わないけれども。


私の友人には結婚して子供が欲しいと言っている子もいるが、私はその子に教えを説くつもりはない。そう思える子が健全で、生き物としては正しいのだと分かっているからだ。そうでなければ人類は絶滅する。
けれど、だから私は反出生主義の人間が増えることを願っている。そうして人間はみんな平等に、緩やかに、死んでいってほしい。
本当は人間だけでなく全ての生き物に滅んでほしいけれど、それは今回の話とは別なので割愛。

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