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『信長公記』「首巻」を読む 第46話「加治田の城御身方に参る事」

第46話「加治田の城御身方に参る事」

一、さる程に、美濃国御敵城宇留摩の城、猿ばみの城とて、押し並べニケ所、犬山の川向ひにこれあり。是れより五里奥に山中、北美濃の内、加治田と云ふ所に佐藤紀伊守、子息右近右衛門と云ひて、父子これあり。或る時、岸良沢を使として差し越し、「上総介信長公へ偏に憑み入る」の由、丹羽五郎左衛門を以て言上候。内々国の内に荷担の者御所望におぼしめす折節の事なれば、御祝着斜ならず。「先、兵粮調へ候て、蔵に入れ置き候へ」と御諚候て、黄金五十枚、岸良沢に渡し遣はされ候。

【現代語訳】

一、そんな時、美濃国の敵の城に、宇留摩城(岐阜県各務原市鵜沼南町。城主・大沢基康。「鵜沼城」とも)、猿啄城(岐阜県加茂郡坂祝町勝山字城山。城主・多治見修理)という2城が、犬山城の(山麓を流れる木曽川の)対岸にあった。この両城から5里(20km)奥の山中の北美濃の加治田という所にある加治田城(現在の岐阜県加茂郡富加町加治田)に、佐藤忠能、忠康という父子がいた。
 ある時(永禄7年)、岸良沢を使者として、「織田信長の家臣になる」と丹羽長秀を介して伝えてきた。内々、美濃国の中に味方が欲しいと思っていた時であったので、織田信長は喜んだ。「先ずは、このお金で兵粮を確保して、蔵に入れなさい」と黄金50枚を岸良沢に渡し、遣わした。

【解説】

永禄7年(1564年)、佐藤忠能は、斎藤義龍(永禄4年に没)の代ではなく、次の斎藤龍興の代に、岸良沢(梅村良沢)を使者として、織田信長に内通したとされています。

永禄8年(1565年)8月、織田信長が美濃国に侵攻すると、佐藤忠能父子は、密約通り織田側に与すると、長井道利は、堂洞城主・岸信周と共に加治田城攻めに出陣しました。織田軍は救援のため、8月28日、堂洞城に攻撃を開始しました。(第47話「堂洞の砦攻めらるゝのこと」に続く。)

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