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『信長公記』「首巻」を読む 第14話「平手中務生害の事」

※平手政秀の死(天文22年閏1月13日)については、第10話「備後守病死の事」の後半に載せるのが普通ですが、切り離して第14話としました。

第14話「平手中務生害の事」

一、平手中務丞が子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて、兄弟三人これあり。総領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持候。三郎信長公、御所望候ところ、にくぶりを申して「某は武者を仕り候間、御免候へ」と申し候て進上申さず候。信長公、御遺恨浅からず、度々おぽしめしあたらせられ、主従不和となり申すなり。

一、さる程に、平手中務丞、上総介信長公、実目に御座なき様体をくやみ、「守り立て験なく候へぱ、存命候ても詮なき事」と申し候て、腹を切り、相果て候。

【現代語訳】

一、平手政秀の子には、長男・五郎右衛門、次男・監物、三男・甚左衛門の3人がいた。総領の長男(嫡男)・平手五郎右衛門は、良い駿馬(速く走る馬)を所持していた。織田信長が「欲しい」と言うと、憎々しいことに、
「棒(それがし)は武者ですから馬が必要ですので、お許しください」
と言って、差し上げなかった。織田信長の遺恨(恨み)は浅くはなく、度々思い出しては気分が悪くしたので、次第に主従関係が悪くなった。

一、そうこうしている内に、平手政秀は、織田信長が「実目無い」(真面目ではない、不真面目である)様子を(こうなったのは守役(教育係)の自分の責任である。育て方を失敗したと)悔やみ、「これまで守り立てて来たが効果が現われなかった。もう、生きていても仕方がない」と言って切腹して果てた。

【解説】

 平手監物政秀の子についてはよく分かりません。『信長公記』によれば、

平手中務丞┬五郎右衛門
     ├監物
     └甚左衛門

となります。五郎右衛門については、長男で、「総領」とありますが、平手家の宗主は代々「監物」なので、今回の件で長男は廃嫡され、次男が平手家を継いだようです。

 系図類をまとめると、

平手監物政秀┬長政(孫右衛門)【廃嫡?】
      ├監物久秀─監物汎秀(甚左衛門)【平手家(宗家)】
      ├埴原寿安(→埴原加賀守常安の養子)【埴原家】
      └お清(織田信長の弟・長益室、雲仙院)

となり、「三方ヶ原の戦い」(元亀3年12月22日)の時、徳川家康の与力として派遣されて稲葉山で討たれた平手甚左衛門汎秀(天文22年1月2日─元亀3年12月22日)を『信長公記』では平手政秀(延徳4年5月10日─天文22年閏1月13日)の三男としていますが、孫のようです。(『政秀寺古記』に「信長記に誤の事」として、「平手甚左衛門は政秀の三男と記し付け候こと、大に誤り候。平手加賀守の嫡子なり。政秀の孫なり」とあります。)平手政秀の自害は天文22年閏1月で、平手汎秀が生まれたのは天文22年1月ですから、平手政秀は生まれた孫の顔を見た1ヶ月後に「これで安心」とばかりに自害したようです。
※埴原屋敷は、生駒屋敷の北です。

【平手政秀の自殺の理由】

 平手政秀の自殺は「織田信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるために、諌言状を残しての諌死」という美談になっていますが、本当にそうでしょうか?

 奇行を諌めるために死ぬことは無いと思うし、平手政秀が死んだからといって、奇行をやめたとも思えません。(この後の斎藤道三との会見にもいつもの格好で行っています。)
 『信長公記』(首巻)「第14話 平手中務生害の事」に拠れば、「平手政秀は、織田信長と次第に不和になり、織田信長の不真面目さを恨んで自刃した。不和の発端は、平手政秀の長男・五郎右衛門が織田信長の命令を拒否したこと」としています。

説①織田信長の奇行を止めるため。(よく知られる美談)
説②息子の不忠を詫びるため。(『信長公記』)

 史実は説②でしょうね。そして、平手政秀は尊敬出来る人物であり、息子の不忠で名に傷が付くのを恐れて、美談に変えたのでしょう。その「不忠」とは、もちろん、「馬を差し出さなかった」程度のものではありません。自殺するくらいですから、もっと平手家の存続に関わる重大問題です。
 平手長政は、
①父・平手政秀は、織田弾正忠家の次席家老で、現宗主(当主)・織田信長の守役であり、
②自分は、前宗主・織田信秀と同じ年に生まれ、2人は乳兄弟(乳母が同じ)である
ことから、織田弾正忠家内の実力者として我が物顔に振る舞い、ついには主君・織田信長の命に背くまで増長したそうです。さらに、「主君が織田信長ではダメだ」と清州と内通したというのです! その事実(内通)を知った平手政秀は、長男・長政を廃嫡して次男・久秀に家督を譲り、反逆者である長男の助命嘆願のために自殺したとのことです。織田信長も「忠臣・平手政秀の嫡男が反逆者ではまずい(名門・平手家を潰さないといけない)」とし、平手政秀への恩返しとして、史実を隠し、美談に変えたとのことです。

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