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『信長公記』「首巻」を読む 第1話「尾張国上下分かちの事」

第1話「尾張国、上下分かちの事」


 尾張国かみ下わかちの事さる程に、尾張国は八郡なり。上の郡四郡、織田伊勢守、諸侍手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随へ、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に候て、守り立て申すなり。

 大和守内に三奉行これあり。織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠、此の三人、奉行人なり。弾正忠と申すは、尾張国端勝幡と云ふ所に居城なり。西巌、月巌、今の備後守舎弟・与二郎殿、孫三郎殿、四郎二郎殿、右衛門尉とてこれあり。代々、武篇の家なり。

 備後殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ、御手に付けられ、或る時、備後守が国中、那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰せ付けられ、嫡男織田吉法師殿に、一おとな・林新五郎、二長・平手中務丞、三長・青山与三右衛門、四長・内藤勝介、是れらを相添へ、御台所賄の事平手中務、御不弁限りなく、天王坊と申す寺ヘ御登山なされ、那古野の城を吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。


【現代語訳】

 やがて尾張国は8郡に分かれた。上4郡は、織田伊勢守信安が土豪たちを手なづけて統治し、岩倉(愛知県岩倉市)に居城を構えていた。川を境に、下4郡は織田大和守達勝の命令に従っていた。尾張国守護・武衛様(斯波義統)は、清洲城に住み、守護代である織田大和守達勝に守られていた。

 織田大和守家には「三奉行」がいた。この「三奉行」とは、奉行職を務める織田因幡守家、織田藤左衛門家、織田弾正忠家の三家のことである。このうち織田弾正忠信秀は、国境付近の勝幡城を居城としていた。西巌(織田良信)、月巌(織田信定)と続き、今の宗主は、織田信秀(桃巌)で、彼の弟に、信康、信光、信実、信次がいた。代々、武辺の(武名の高い)家柄であった。

 織田信秀は特に優れた人物で、諸家中の実力者たちを味方に組み入れた。ある時、織田信秀は、国の端の勝幡から中央の那古野に移ることにし、そこに堅固な那古野城を築かせた。嫡男・織田吉法師(後の織田信長)に、一番家老・林秀貞、二番家老・平手政秀、三番家老・青山与三右衛門、四番家老・内藤勝介を付け、賄方(財政担当者。膳奉行、勘定奉行)を平手政秀に任せた。那古野城は、(吉法師が生まれ育った勝幡城と比較して、)諸事不便であったが、学問だけは那古野城内の天王坊(天王社の神宮寺・安養寺)で十分に身につけることができた。織田信秀は、那古野城を吉法師に譲り、熱田近くの古渡に新たに城を築いてそこに移った。この古渡城の賄方は山田弥右衛門であった。

【解説】

 織田信秀・信長父子は、尾張国下4郡守護代・織田大和守家の奉行・織田弾正忠家の人間である。それが、尾張国下4郡守護代・織田大和守家を超え、尾張国守護・斯波家を超えて尾張国を領したのであるから、まさに「下剋上」である。

 織田信長生誕地には、勝幡城説と那古野城があるが、『信長公記』の記述からは、勝幡城説のように思われる。ただ、『信長公記』には、那古野城は織田信秀が築いたとあるが、実際に築いたのは今川氏親で、織田信秀が今川氏豊から奪った城であるので、『信長公記』が史実に100%忠実であるとは言い切れない。

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