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『信長公記』「首巻」を読む 第17話「武衛様御生害の事」

第17話「武衛様御生害の事」

一、七月十二日、若武衛様に御伴申す究竟の若侍、悉く川狩に罷り出でられ、内には、老者の仁体纔に少々相残る。誰々在之と指折り、見申し、坂井大膳、河尻左馬丞、織田三位談合を究め、今こそ能き折節なりと、焜と四方より押し寄せ、御殿を取り巻く。
 面広間の口にて、何あみと申す御同朋、是れは謡を能く仕り候仁にて候。切つて出で働く事比類なし。又、はざまの森刑部丞兄弟切つてまはり、余多に手を負はせ討死。頸は、柴田角内ニッとるなり。
 うらの口にては、柘植宗花と申す仁切つて出で、比類なき働きなり。
 四方屋の上より弓の衆さし取り引きつめ、散々に射立てられ、相叶わず、御殿に火を懸け、御一門数十人歴々御腹めされ、御上﨟衆は堀へ飛び入り、渡り越し、たすかる人もあり、水におぽれ死ぬるもあり。哀れなる有様なり。
 若武衛様は川狩より、直ちにゆかたびらのしたてにて、信長を御憑み候て、那古野へ御出で、すなわち弐百人扶持仰せ付けられ、天王坊に置き申され候。主従とは申しながら、筋目なき御謀反おぼしめしたち、仏天の加護なく、か様に浅猿敷、無下無下と御果て候。若君一人、毛利十郎生捕に仕り候て、那古野へ送り進上候ひしなり。御自減と申しながら、天道恐ろしき次第なり。
 城中にて、日夜、武衛様へ用心機遣ひ仕り、粉骨の者どもも、一旦憤を散ずるといへども、我も人も、小屋小屋やかれ候て、兵粮、着の莢等に闕く難儀の仕合にて候なり。

【現代語訳】

一、(天文23年、一説に天文22年)7月12日、若武衛様(尾張国守護・斯波義統の子、若君。岩龍丸。後に元服して斯波義銀)にお伴して、屈強の若侍が悉く川狩(川漁)に(清洲城内の御殿「清州城守護館」から)出て行かれ、「清州城守護館」内には、老侍が数人残っているだけであった。「誰と誰がが残っている」と指折り数えると、坂井大膳、河尻左馬丞、織田三位は談合して、「今こそ絶好のチャンスだ」と、どっと四方から押し寄せて、清州城守護館を取り巻いた。
 清州城守護館の表広間の口(正面の広間の出入り口)では、何んとか阿弥(善阿弥)という同朋衆(時宗の陣僧)で、謡の名人でもある人が、切って出て、他に比類無く戦った(強かった)。また、狭間を守っていた森政武・掃部助兄弟も斬りまくって、多くの侵入者に傷を負わせたが、討死した。この森兄弟の首は、柴田角内が2つとも取った。
 清州城守護館の裏口では、柘植宗花という侍が切って出て、これまた他に比類無く戦った。
 清州城守護館を取り囲む四方の建物の屋根の上から弓衆が引切無く弓を放ったので、これでは敵わないと諦めて、斯波義統は、清州城守護館に火を放った。弟・斯波統雅や斯波義虎ら御一門数10人やお歴々が切腹し、上﨟衆(侍女)は堀へ飛び込み、渡りきって助かる人もいたが、溺れ死ぬ人もいた。哀れな光景であった。
 若武衛様(斯波義銀)は、川狩(川漁)の漁場から直接、湯帷子姿のままで、織田信長を頼って、那古野城へ来たので、200人扶持を奉じて那古屋城の天王坊に住まわせた。守護・斯波氏と守護代・織田氏は主従関係にあるが、家臣・織田氏が大義名分の無い謀反を思い立つと、主君・斯波氏は神や仏のご加護無く、このようにあさまじく、むざむざと死んでしまった。(もう1人の若君は、毛利十郎が生け捕りにして、那古野城へ送ったので死なずにすんだ。)自減ではあるが、天道に背けば、恐ろしい結果となる。
 清洲城内で、日夜、武衛様(尾張国守護・斯波義統)へ気遣いして粉骨砕身仕えてきた者たちも、一旦が義憤を感じていきまいたが、誰も彼もが家々を焼かれて、衣食住の目処が立たず、も小屋貼やかれ候て、難儀した。

※下の絵は清須城内に展示されている清州城守護館のイラストです。

【解説】

 何代にもわたって尾張国の守護だった斯波氏。
 それをずっと支えてきた織田大和守家。

 両者の関係は良好だと思われたのですが・・・

 織田大和守家が勢力を伸ばしてきた織田弾正忠家を面白く思わず、襲う(「第12話 深田・松葉両城手かはりの事」)と、織田信長は、簗田弥次右衛門を使って、清州城の内部分裂を図り、斯波氏一門を味方につけました(「第13話 簗田弥次右衛門御忠節の事」)。なんとかして斯波氏を排除しようと思っていた小守護代の坂井大膳(当時の守護代・織田信友は坂井大膳の操り人形でした)は、「チャンス到来」とばかりに、尾張国守護・斯波義統を襲って自害させました。

 当時の人の信仰は「神道」と「仏教」だけではありません。これに「修験道」と「天道」があります。「天道思想」とは、
・「誰も見ていなくても、お天道様が見ているから悪いことは出来ない」
・「天網恢恢疎にして漏らさず」(悪事を働けば天罰が下る。)
ということです。
 今回、斯波氏が織田弾正忠家に付いたので、織田大和守家に滅ぼされました。これは、理由はともあれ、「主君殺し」という大罪ですので、織田信長に「織田大和守家を滅ぼしてもよい」という大義名分を与えてしまいました。天道思想によれば、次に滅びるのは織田大和守家でしょう。

 さて、斯波氏は全滅しませんでした。斯波義統の子が2人生き残りました。
①兄・斯波義銀(よしかね):織田信長が保護→追放→津川義近
②弟・毛利秀頼(ひでより):毛利十郎が助け、養子にした子
 毛利十郎の近親者(続柄不明)が毛利新介で、『信長公記』の桶狭間の段に「毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。」(毛利十郎がいい行いをしたので、毛利新介が今川義元を討てた)とあります。

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