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【活動支援記事】戦国未来は『奥の細道』を読む。

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『奥の細道』を読むのは高校以来だな。

「読む」と言っても、

『芭蕉自筆 奥の細道』(岩波書店)
久富哲雄『おくのほそ道 全訳注』(講談社学術文庫)

の2冊だけで、しかも『明智軍記』関連地(北陸)だけですけどね。

1.山中温泉

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 山中の温泉に行ほど、白根が嶽、跡に見なしてあゆむ。左の山際に観音堂有。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
  石山の石より白し秋の風
 温泉に浴す。其功、有間に次と云。
  山中や菊はたおらぬ湯の匂


 白山、自生山那谷寺(石川県小松市那谷町ユ。『明智軍記』では「那多の観音」)を見て、「効き目は有馬温泉に次いで凄い」という山中温泉へ。(明智光秀は、山中温泉の手前の山代温泉へ湯治に行っています。)

 ──山中や菊はたおらぬ湯の匂

 「重陽の節句」の起源である謡曲『菊慈童』、あるいは、『太平記』「龍馬進奏の事」を知らない人には、この句の意味が分からないでしょう。(江戸時代には「太平記読み」という職業がありましたから、江戸時代の庶民は、『太平記』の事をご存知でしょう。)
 中国の周の穆王の時代、穆王(ぼくおう)の寵童・慈童(じどう)は誤って穆王の枕を跨いでしまいました。本来ならば死刑ですが、可愛い我が子ですので、酈縣(てつけん。謡曲では「れつけん」、『太平記』では「れきけん」)への流罪にしました。それから700年、魏の文帝の時代、「酈縣山麓から、霊妙な薬の水が湧き出した」という噂を聞いた文帝は、勅使に水源を探索させました。秋のことであり、酈縣山を往く勅使一行の目に飛び込んできたのは、咲き乱れる菊でした。その中に一軒家があったので、行ってみると、その家主は、なんと慈童でした。彼によれば、父・穆王の形見の枕に添えられた『法華経』の経文(穆王が霊鷲山で釈迦から授けられた四要品(方便品、安楽行品、壽量品、普門品)の八句の偈のうち、普門品にある二句の偈(具一切功徳 慈眼視衆生/福聚海無量 是故応頂禮))を菊の葉に書き付けたところ、そこから滴る露が霊薬となり、不老不死の身となったのだそうです。

※『太平記』「龍馬進奏の事」
 此時、慈童と云ける童子を、穆王、寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時、彼慈童君の空位を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に、雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処」とぞ奏しける。群議止事を不得して、慈童を酈県と云ふ深山へぞ被流ける。彼酈県と云所は、帝城を去事三百里、山深して鳥だにも鳴かず、雲暝して虎狼充満せり。されば仮にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王、猶、慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、「普門品」にある二句の偈を、潛かに慈童に授させ給て、「毎朝に十方を一礼して、此文を可唱」と被仰ける。慈童、遂に酈県に流さる。深山幽谷の底に棄てられけり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、「若、忘もやせ んずらん」と思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲むに、水の味、天の甘露の如くにして、恰も百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨、羽化の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童、猶、少年の貌有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。

 ということで、この松尾芭蕉の句の意味は、「山中温泉では、菊の花を摘んで酒に浮かべたり、葉を摘んで酒に浸けたりして、菊の匂いを感じながら酒を飲まなくても、湯の匂いを嗅ぐだけで、菊慈童の如く、あと700年は生きられそうだ」となります。
 「石川県」の石山の石より白き「石川」の別名が、「倶利伽羅峠の戦い」の後、木曾義仲軍が流されないように、手に手を取って渡った「手取川」で、この手取川(石川)の水で作ったのが「菊酒」です(異説あり)。『明智軍記』に「即ち、猪子兵助を以て御目見へ申し上げけり。其の刻み、持参申すにより、祝儀と為して、菊酒の樽五荷、鮭の塩引きの簀巻き二十、献上す。又、信長の御内所の局は、光秀が従弟(いとこ)なるの故、別儀を以て御台所へ宮笥(みやげ)として、住国(じゅうこく)大滝(おおだき)の䯻結(もとゆい)紙三十帖、府中の雲紙千枚、戸口(とのぐち)の網代組の硯筥(すずりはこ)、文笈(ふみばこ)、香炉箱類の物五十、進覧(しんらん)しけり」(明智光秀は、織田信長に仕官する時、織田信長に菊酒など、御台所(帰蝶)に大滝の䯻結紙など、北陸地方の特産品を献上した)とあります。
 「天下の美酒」「まぼろしの銘酒」と称される「菊酒」の産地には、鶴来説、金沢説、加賀説があります。
①鶴来説:「金沢城下より四里はなれてつるぎという町あり。加賀国一の宮として白山の社あり。ここに米屋といへる酒店にて作る名酒を菊酒と呼ぶなり、菊酒の名はこの町に一河の流れ(注:手取川)ありて是れを白山川ともいふ。この川水をもって造れる故にかく菊酒と呼ぶなり」(『周遊奇談』)
②金沢説:「この川(注:犀川。別名「菊水川」。上流に菊の花が咲き乱れ、その菊の葉の露が川に流れ込んでいるという)水に菊の滴り流れこみて、菊の水なるとして、金沢の酒家に汲み運び普く是れにて酒を製すれば盃にうけてる酒の滴りのこりて、菊の紋あざやかに残れば、さては薬の菊の水なりとて、人々菊酒と称し、国産の随一とはなり待りぬ 」(『北国巡杖記』)
③加賀国説:「菊酒の説、鶴来、金沢の酒肆にわたり一定の論なきに肖るといへども、これを要するに、菊酒は加賀闔国の酒の美称なり」(富田景周『加賀菊酒考』)
 「菊酒」は、一般的には、9月9日の「菊の節句(重陽)」や「敬老の日」に、菊の花を浮かべ、長寿を祈願して飲む酒ですが、ここでは、手取川(白山川)、あるいは、金沢の犀川(菊水川)の水で醸造した酒を指し、一般には「加賀の菊酒」として知られていますので、富田景周の言うように「加賀国で醸造された美酒」でいいと思いますが・・・「加賀の菊酒」の初出は『言継卿記』(大永7年(1527年)4月19日条)の「阿佛坊、菊酒、皆々に可申候由候」(白山本宮長吏・阿佛坊が京の公卿たちに菊酒を振る舞った)です。つまり、白山衆徒の坊舎で造られた「白山酒」であり、豊原寺の「豊原酒」同様、僧坊酒です。金沢の酒の醸造は、 天文15年(1546年)に尾山御坊(金沢御堂)ができて以降と考えられ、『言継卿記』によって、それ以前に「菊酒」があったことが判明しているわけで、金沢説は否定されています。

 ──酒の名は、「天野島酒」「白山酒」。汲む手も匂ふ「菊酒」は、持ながらこそ千代も経ん。(『猿の草子』) ※「天野酒」は大阪の天野山金剛寺でつくられた酒。

 ──酒は柳一荷しかのみならず、兵庫西宮の旨酒、及び、越州豊原、賀州宮腰等。(『尺素往来』) ※「柳」は「京都の柳酒屋の酒」、「兵庫西宮」は「灘の生一本」、「越州豊原」は「越前国豊原寺の豊原酒」、「賀州宮腰」は「加賀国宮腰(石川県金沢市金石)の菊酒(白山酒)」。

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