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『信長公記』「首巻」を読む 第11話「三の山赤塚合戦の事」

第11話「三の山赤塚合戦の事」

 天文弐年癸丑四月十七日、織田上総介信長公、十九の御年の事に候。
 鳴海の城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年、父子、織田備後守殿、御目を懸げられ候ところ、御遷化候へば、程なく謀叛を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。沙汰の限りの次第なり。
一、鳴海の城には子息・山口九郎二郎を入れ置く。
一、笠寺に取出要害を構へ、かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎五人在城なり。
一、中村の在所を拵え、父山口左馬助楯籠る。
か様に候ところ、四月十七日、
一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あかり候のところ、
一、御敵山口九郎二郎、廿の年、三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で候。先手あし軽、清水又十郎、柘植宗十郎、中村与八郎、萩原助十郎、成田弥六、成田助四郎、芝山甚太郎、中島叉二郎、祖父江久介、横江孫八、あら川叉蔵、是れらを先として、赤塚へ移り候。
一、上総介信長、三の山より此のよしを御覧じ、則ち、あか塚へ御人数よせられ候。御さき手あしがる衆、あら川与十郎、あら川喜右術門、蜂屋般若介、長谷川橋介、内藤勝介、青山藤六、戸田宗二郎、賀藤助丞。
 敵あひ五間、六けん隔て候時、究竟の射手共、互いに矢をはなつところ、あら川与十郎、見上げの下を箆ぶかに射られて、落馬したるところを、かかり来て、敵がたへ、すねを取りて引くもあり、のし付のつかのかたを引くもあり。又、こなたより、かしらと筒躰引き合ふ。其の時、与十郎さしたるのし付、長さ一間、ひろさは五、六寸候ひつる由なり。さやのかたをこなたへ引き、終にのし付頸筒躰共に引き勝つなり。
 巳の刻より午の刻までみだれあひて、扣き合つては退く、又、まけじおとらじと、かゝつては扣き合ひ扣き合ひ、鎗下にて敵方討死、萩原助十郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎。あまり手近く候問、頸は互に取り候はず。
一、上総介信長公衆討死三十騎に及ぶなり。
一、あら川又蔵こなたへ生捕る。
一、赤川平七敵がたへ生捕り候ひしなり。
 入り乱れて、火花をちらし相戦ひ、四間、五間をへだて、折り敷いて数刻の戦に、九郎二郎は、うわやりなり。其の比、うわやり、下鎗と云ふ事あり。いづれも、みしりかへしの事なれば、互に、たるみはなかりけり。折り立ての事にて、馬共は皆敵陣へかけ入るなり。是れ又、少しもちがひなく、かへし進上候なり。いけどりもかへし候なり。さて、其の日、御帰陣候なり。

【現代語訳】

 天文2年(1533年)癸巳ではなく、天文21年(1552年)壬子4月17日、天文3年(1534年)5月生まれの織田信長が、19歳の時の事である。
 鳴海城主・山口教継、子・教吉(20歳)の父子は、織田信秀に目をかけられていたが、織田信秀が亡くなると、程なく謀叛を企て、駿河衆(今川義元郡)を鳴海城へ引き入れると、それを契機に、駿河衆は、尾張国内に乱入した。「沙汰の限り」(論外、もってのほか、言語道断)の次第(順序、筋道)である。
一、鳴海城(愛知県名古屋市緑区鳴海町城)には子・山口教吉を入れ置く。
一、笠寺(愛知県名古屋市南区)に砦、要害を築き、葛山長嘉、岡部元信、三浦義就、飯尾連龍、浅井政敏の今川方の5人の武将を入れる。
一、中村(愛知県名古屋市南区)に桜中村城を拵(こしら)え、父・山口教継が入る。
この様に配置したところ、天文21年4月17日、
一、織田信長(19歳)、兵約800人で出陣し、中根村(愛知県名古屋市瑞穂区中根町)を駆けて通り、小鳴海(愛知県名古屋市緑区古鳴海)へ移り、三の山(愛知県名古屋市緑区鳴海町三王山)へ登ると、
一、敵・山口教吉(20歳)、三の山の15町(1.64km)東、鳴海より北にある赤塚郷(愛知県名古屋市東区赤塚町)へは、鳴海より15、6町(1.64~1.75km)ある。
 山口教吉軍の兵は約1500人で、鳴海城を出て、赤塚へ出陣した。先陣は足軽の清水又十郎、柘植宗十郎、中村与八郎、萩原助十郎、成田弥六、成田助四郎、芝山甚太郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、荒川又蔵である。彼等を先陣として、赤塚へ移動した。
一、織田信長、三の山からこの様子(鳴海城から赤塚へ移動する様子)を見て、ただちに、赤塚へ兵を寄せた。
 先陣の足軽衆は、荒川与十郎、荒川喜右術門、蜂屋般若介、長谷川橋介、内藤勝介、青山藤六、戸田宗二郎、賀藤助丞。
 敵との距離が5、6間(9~11m)と迫った時、屈強の射手たちが、互いに矢を放ったところ、荒川与十郎が、兜の眉庇の下を箆深(のぶか。射た矢が深々と突き刺さった様)に射られて、落馬したところに敵味方が集まってきて、敵方へ脛を持って引く者(敵)あり、熨斗(金銀細工)付の大太刀の柄の方を引く者(敵)あり、また、此方(味方)側から、頭と胴体を引き合った。その時、荒川与十郎が差している熨斗付の大太刀は、長さ1間(1.8m)、幅5、6寸(15~18cm)もあったからである。鞘の方を此方(味方側)へ引き、終に熨斗付大太刀、首、胴体共に(味方が)引き勝った。
 巳の刻(午前10時前後)~午の刻(正午前後)まで混戦状態で、打ち合っては退き(離れ)、また、負けじ劣らじと、攻めかかっては打ち合い、打ち合い、槍で討ち取った敵は、萩原助十郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎である。あまりに近くて、(討ち取った相手の首を取っていると、近くの敵に討たれるので、)首はお互いに取れなかった。
一、織田信長軍で討死したのは30騎である。
一、荒川又蔵を此方側(織田信長側)が生け捕った。
一、赤川平七は、敵・山口方が生け捕った。
 この「赤塚の戦い」は、混戦(接近戦)で、両軍入り乱れて、火花を散らして戦った。敵味方、たった、4間(7.3m)、5間(9.1m)を隔てて、折り敷いて(片膝をついた姿勢で)数刻(2時間程度)の戦であった。山口教吉は、上槍であった。その頃、「上槍」「下槍」という区別があった。
 誰もが見知り合いだったが、お互に、弛み(気を抜くこと)はなかった。降り立て(馬から降りての戦い)であったので、馬は皆、敵陣へ駆け入ってしまった。しかし、軍馬は、少しも違い無く(正確に)なく、返した。生け捕った捕虜も返した。
 こうして織田信長は、その日のうちに、居城・那古野城へ帰陣した。

【解説】

 『信長公記』の「首巻」は草稿のようで、話が年代順に並べられていない。原本(町田本)では、

第09話 備後守病死の事
第10話 山城道三と信長御参会の事
第11話 三の山赤塚合戦の事
第12話 深田・松葉両城手かはりの事
第13話 簗田弥次右衛門御忠節の事

となっているが、

第10話 備後守病死の事(天文20年3月3日)
第11話 三の山赤塚合戦の事(天文21年4月17日)
第12話 深田・松葉両城手かはりの事(天文21年8月15日)
第13話 簗田弥次右衛門御忠節の事(天文21年8月16日)
第14話 平手中務生害の事(天文22年閏1月13日)
第15話 山城道三と信長御参会の事(天文22年4月下旬)

と並び替えた。(以下も同様)

「天文2年」と間違えたり、「織田信長(19歳)」「山口教吉(20歳)」と年齢を強調したりと、この第11話と第12話「深田・松葉両城手かはりの事」は、他の話と書式も異なる。下書きなのか、後世の加筆なのか。

【謎の「上槍・下槍」】

説①(戦国未来説):昔は短槍だったので、剣術や棒術同様、槍術でも「上段の構え・中段の構え・下段の構え」があった。上槍は上段の構えで、下槍は下段の構えである。

説②:右手は順手で持つ。左手を順手で持つのが「上槍」で、逆手で持つのが「下槍」。

説③:敵と槍を交えた時、相手の槍の柄を自分の槍の柄で下に押えつけ、圧倒するのが「上槍」で、槍に押えつけられて、圧倒されるのが「下槍」。

説④:高所に登って、下の者を刺すのが「上槍」で、下の者が高所の者を突き上げて刺すのが「下槍」。

 『信長公記』に「其の比、うわやり、下鎗と云ふ事あり」(その頃は区別があったが、今はない)とありますから、自説(説①)が正しいと確信しています。足軽が使うのは、柄の長さが3間半(6m30cm)の「長槍」で、上段の構えは重くて無理(上から振り下ろして叩くのみ)ですが、馬に乗っている武将が使う「持槍」は9尺(2m70cm)くらいなので、山口教吉は上槍(上段の構え)だったのでは?
 説②は今も昔もあるし、説③や説④は「上槍が有利」ということですから、誰も「下槍」はしないと思います。「折り敷いて数刻の戦に、九郎二郎は、うわやりなり」ということは、下槍の使い手(片膝付いて槍を使う者)の中で、上槍の使い手もいて、目立ったのではないでしょうか?
 説③が正しいのであれば、「常に上槍」(数刻の間、何度槍を交えても常に上槍)ということは無いでしょう。正解が説④であり、「山口軍は先に赤塚に移動して高所を取り、織田軍は低地からの攻撃になったので、「数刻の間、常に上槍という状態であった」と解釈出来ますが・・・。
 他の本では、『江濃記』の「稲葉、上鑓になり、野村が妻手の肩を突けれども、事ともせず」があります。これも「上段の構えに変えて」と解釈できると思いますが、普通は「相手の槍の上に自分の槍を置けたので、有利になって、相手の妻手(めて、右手)の肩を突くことが出来た」と訳すようです。説③が正しいとすると、「其の比、うわやり、下鎗と云ふ事あり」とは、「当時は『上槍』『下槍』という言葉があったが、今は死語で誰も言わない」という意味になるでしょうね。
 

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