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『信長公記』「首巻」を読む 第12話「深田・松葉両城手かはりの事」

第12話「深田・松葉両城手かはりの事」

一、八月十五日に清洲より坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位申し談じ、松葉の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、同松葉の並びに、

一、深田と云ふ所に織田右衛門尉居城。是れ又、押し並べて両城同前なり。人質を執り堅め、御敵の色を立てられ候。

一、織田上総介信長、御年十九の暮八月、此の由をきかせられ、八月十六日払暁に那古野を御立ちなされ、稲葉地の川端まで御出勢。守山より織田孫三郎殿、懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介、孫三郎一手になり、海津口へ御かかり候。

一、清洲より三十町計り踏み出だし、海津と申す村へ移り候。
 信長公、八月十六日辰の刻、東へ向ってかかり合ひ、数刻、火花をちらし相戦ふ。孫三郎殿手前にて、小姓立の赤瀬清六とて、数度武篇いたすおぼえの仁体、先を争ひ、坂井甚介に渡り合ひ、散々に暫く相戦ひ、討死。終に清洲衆切り負け、坂井甚介討死。頸は中条小一郎、柴田権六相討つなり。此の外、討死、坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与を初めとして、歴々五十騎計り、枕をならべて討死。

一、松葉口廿町計りに取出、惣構へを相拘へ、追入れられ、真島の大門崎つまりに相支へ、辰の刻より午の刻まで取合ひ、数刻の矢軍に手負数多出来、無人になり、引き退く所にて、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六うたせ、本城へ取り入るなり。 

一、深田口の事、三十町計りふみ出し、三本木の町を相拘へられ候。要害これなき所に候の間、即時に追ひ崩され、伊東弥三郎、小坂井久蔵を初めとして、究竟の侍三十余人討死。

 これによつて、深田の城、松葉の城、両城へ御人数寄せられ候。降参申し、相渡し、清洲へ一手につぽみ候。上総介信長、是れより清洲を推し詰め、田畠薙させられ、御取合ひ初まるなり。

【現代語訳】

一、天文21年8月15日、清洲城の坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位が謀議して、松葉城(愛知県海部郡大治町大字西條字南屋敷)へ攻め込み、織田伊賀守信氏(織田信長の甥)を人質に取った。松葉城のすぐ近く(徒歩3分)の

一、「深田」という所に織田右衛門尉信次(織田信秀の異母弟、織田信長の叔父)の居城・深田城があった。これまた攻め込んで、松葉城同様に城主・織田信次を人質にとった。「敵の色」(織田信長に敵対する意志)を示した。

一、織田信長(19歳の秋)は、8月、この報告(松葉城と深田城が清州衆に奪われたこと)を聞き、8月16日の明け方、那古野城から出陣した。「稲葉地(名古屋市中村区稲葉地。「稲庭地」とも表記)の川」(庄内川)まで出向くと、守山城の城主・織田信光が駆け付けた(末森城の織田信勝は不参加?)ので、軍隊を3団に分け、松葉口、三本木口、清洲口を攻めさせた。織田信長は、庄内川を越えると、織田信光と合流して、萱津口へ攻めかけた。

一、清洲より約30町(3.3km)出撃して、萱津村(愛知県あま市上萱津八剱)へ移った。 
 織田信長は、8月16日の辰の刻(午前8時前後)、東へ向って攻めかかり、数刻(数時間)、火花を散らして戦った。織田信光の手勢(家臣)で小姓あがりの赤瀬清六という数回武功をあげた人が先を争い(1番槍を争い)、小守護代・坂井甚介と渡り合って(1対1で)暫く戦ったが、討たれた。しかし、清洲衆が負けると、坂井甚介も討死した。坂井甚介の首は、中条家忠と柴田勝家が二人がかりで取ったという。この他の清洲衆の討死者は、坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与をはじめとして、お歴々(譜代の家臣)約50人であり、「枕を並べて」(同じ場所(萱津)で)討死した。
※これを「萱津の戦い」といい、前田利家の初陣だという。

一、松葉口では、松葉城から約20町(2.2km)出陣し、砦を築いた「惣構え」(後世では小田原城のように城と城下町を塀や堀で囲んだ要塞都市を指すが、当時は村の出入り口に門と関所(櫓)を設けた程度だとか)を守備陣とし、織田信長・信光連合軍をこの「惣構え」へ入れたが、逆に「総構え」一角の真島の大門崎(あま市上萱津)に追い込まれてしまい、辰の刻(午前8時前後)から午の刻(正午前後)まで戦った。数刻(数時間)にわたる矢戦で、怪我人が多く出て、丈夫な兵がいなくなり、(本城へ)引き退く時に、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六が討たれるも、生き残った者は本城(松葉城)へ撤退した。 

一、深田口では、深田城から約30町(3.3km)出陣し、三本木の町を守備陣としたが、そこには要害が無かったので、すぐに攻め崩され、伊東弥三郎、小坂井久蔵をはじめとして、屈強の武士30余人(萱津口の50人と合わせると80人)が討死した。

 こうして萱津口、松葉口、深田口(三本木口)で勝利した織田信長は、深田城、松葉城の両城へ攻め入ると、両城とも降参し、両城を織田信長に渡して、清洲城へ撤退した結果、清州衆は1団となって清州城に集結した。織田信長は、兵を清洲城へ進め、周囲の田畑の農作物を刈り取った。
 こうして城の取り合い(織田弾正忠家(那古野の織田信長)と織田大和守家(清州の織田信友)の敵対関係)が始まったのである。

【解説】

 清州城から3km、「萱津(かやつ)」といえば、萱津神社(愛知県あま市上萱津車屋)。
 地名「萱津」の由来は、「萱(カヤ)が生い茂る津(湊)」のような気がしますが、萱津神社の御祭神「鹿屋野比売(カヤノヒメ)神」によるのだとか。

 松葉城も深田城も清州衆に簡単に落とされた城であるので、織田信長も1日で取り戻せたのでしょう。
 タイトルの「深田・松葉両城手かはりの事」の意味が分かりません。「手(て)」は「軍勢」だから、「城を乗っ取られて城兵が替わった」? 「手(しゅ)」は「主」の誤字で「城主替わり」? 「深田・松葉両城手かはりの事」より「深田・松葉両城奪われるも奪還せし事」の方がいいのでは?
 「第22話 蛇替えの事」にしても「池の水を抜く事」であり、「池の水を替える事」ならまだ分かりますが、蛇を替えるって???

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