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不登校で再考する子供の評価<その6>不動からの脱却

◾️子供の学びに関わる、その魅力と限界

小学校を不登校している長女はきっかけに過ぎなかった・・・。つまり、大人の学びと子供の学びを長く放置プレイしていたツケが我が家にやってきただけの話だった。

 大人はリスキリングとか無理矢理感のあるネーミングで「平均寿命が上がると、国も援助できないし。もう一回、稼ぎ方を自助努力してね」っていう現象に巻き込まれ、子供は目の輝きを曇らせ、声の張りを弱めることで「将来的にリスキリングでちゃぶ台返しが待っているけど、とりあえず義務教育は済ましましょう」の状況を耐え忍ぼうとする展開になっているにしか見えない・・・。

 さて、本題へ。
 <Whole parents>の視点で大人の親役をまとめると、「親のアンラーニングと子供のラーニングを重ね合わせることで、相互変容の確率を上げていく」というのが今回のテーマです。

 この過程を通じて、子供はBeing & BodyがDoing & Mindと統合されていく方向へ。そして、親は残りの成人人生と真っ最中の家族人生が統合されていく方向へ。小生は、真の健康体(ウェルビーイング)を目指したいのです。そう、「かくあるべし」の信念に引き裂かれることのない世界へ。

 とはいえ、まだまだベータ版の域を出ておりません。抽象度が高いので、これを徐々に具体化、つまり、地に足のついた行動に置き換えてみます。

 ただし、あまり気合いでイキってはいけません、自分。なぜなら、親役を80%のエネルギーでこなしている人なんていませんし、常に、限度ギリギリの100%ですよね。子供が寝込んだり、仕事がトラブったりすれば、120%以上の瞬発力が要求されるのが家庭生活です。
 したがって、「親子の相互変容」の一択なんていう主張は、「お前は、どこの世界で生きてるんだ!」的な反応で迎えられるであろうことは必至です。
  

◾️親と子の中心不動からの脱却バリエーションを意識する

 まず、具体的行動方針に入る前のスタートラインについて。

 <図表9>の中央にあるのが、親の学びの中心軸を子供の学びの中心軸に転写するパターンです。「よりいい学校がいいのだから、目指そう」、「テストの成績が良いのは、良い努力をしているから」などの親が持っている学びの信念を無条件に子供に転写していく状況です。さすがに昭和じゃないんだから、親子の学びへの態度がこれだけというのは少数派でしょうけど、頻度的には高いと思います。
 なぜか? 小生も含めた親は、自分の親の持っていた学びの中心軸を引きずっています。転写済み。かつ、自己の学びへの信念について再考した場面がほとんどないままに父親や母親になって、「あーせい、こーせい」を始めちゃうので、躾と学びがごっちゃなのことが多いのです。

 自戒を込めて言いますが、親の言うことをよく聞く子供の姿は、「子育てが、うまくいっている」という証と思ってしまうのです。まあ、そもそも自信があるわけでもないから、思いたいのかも。
 ところが、自分の子供がその道から外れそうになると、そもそもに参照する他の学びの中心軸がないので動揺が走ることになります。、極端ですけど、「えー、学校行きたくないって・・・どういうことなの?」というあたふたがきます。回顧録ですけど。

 図表の中央から、4方向が主なものとして考えられます。比較的楽な順から①「親の中心不動と子の単体変容」、②「親の中心保留と子の相互変容」、③「親の単体変容と子の中心保留」、④「親と子の相互変容」です。お気づきのように、非常に望ましいコースになっている親子の相互変容は最もエネルギー負荷が高いものとしています。


図表9

・①「親の中心不動と子の単体変容」
 まずは基本形。親の学びの信念はそのままにして、どこか良い委託先(良い学校とか、良い習い事)に子供を行かせるもの。親の中心軸の転写は委託先のチョイスまで。そこから先は、その中のコンテンツ(学びの内容)とコンテンツ提供先のコンテクスト(学びへの信念、ビジョンって言い方の方が素敵?)が子供に自己変容の機会を与えてくれる。ここでは、親はできるだけ子供の学びに関与しない方が、自己変容は期待できます。それと、なんと言っても、親の時間や労力が少なくてすむのは助かるのだった。

 周囲を見渡していての実感地ですが、義務教育段階の年頃だと身体性に関する学び(運動系)であれば、自己変容が起きる場面が多いと思います。。Bodyへの主観的な意識から、客観的な意識へ。 しかし、運動系は古い文脈、つまり、学びの中心不動のままのところもあるし、そこに来る子供たちも同様な思想が刷り込まれつつあるので、①はサイコロ的。 
「有名小中学校へいく、とか、水泳とピアノは一通りやらせる」は、親のコンプレックスが投影されているとか言われますが、それは学びの中心を不動にしているものでもあります。意識的にミニマムにする方針で望まないと、「いい学校へ行くことが学びの基本」「良い子はお稽古事を嗜むのが流儀」のような中心転写が、世代に連鎖しながら続く。そして、また図表9の中央部へ戻るのです。

・②「親の中心保留と子の相互変容」
 ここはやや親の手間がかかるものの、子供の相互変容が期待できます。簡潔に言うと、場に身を委ねる。子供の3rdプレイスという場を提供するものです。まあ、子供のスタバみたいなものか?・・・ちがうか。
  家庭=1stプレイス、学校(学校併設の学童保育を含む)=2ndプレイス、でもって、3rdプレイス。居場所の多さは学びの文脈の多様性でもあります。やや辛いのは、わざわざ探さないと見つからないことでしょうけど、これだけ不登校の子どもが増えると、思った以上に数はあります。市場原理なのかもしれないけど、子供の居場所が義務教育圏外に増えるのは自然の流れとも言えそう。
 特にフリースクールになれば、昼間に子供達が集まれる場所なので、子供達の興味関心が起点になってお互いの存在が「なに?なに?」を刺激していきます。場の主宰者の志の中に「相互変容」への理解があるので、子供の学びの中心軸が子供たちとの遊びの中に新たにできる工夫が多いですね。野外での定期的な集まりもあるし、元学校の先生とかが主宰だったりもするので、実は親も中心保留と言いながらも「そういう人物を間近に見ることで」影響を受ける。間接的な親の相互変容かな?、実感します。
 
 しかし、その前後の準備やら、サポートは手間です。場所が近い遠いとか、親の生活パターンと場の開催頻度の組み合わせやら、運不運もありそうです。小生のところは徒歩圏に効率のフリースクールがあって、所属は前の学校(2ndプレイス)のまま、3rdプレイスに月曜ー金曜通えてるのが助かっています。でも、もうほとんど小学校(2ndプレイス)は通ってませんから、実質フリースクールが2nd。
 繰り返すようですけど、こういった3rdプレイスでは運営に携わる人々の心意気に清々しさを感じることが多い。子の3rdプレイスへ、親が関わりを強く意識していくなら、大人のアンラーニングの機会もあるのです。「ああ、こういう志で活動している人がいるんだ・・・」という存在は本なんか読むよりは人生にインパクトがあります。

・③「親の単体変容と子の中心保留」
 
この③は、「子供なんか関係ない! まずは大人自ら自己変容にチャレンジせよ!」ってことですな。身も蓋も無い話ですけど、そうです。
 
原理的にはめちゃシンプルです。
ほっておくと、親の中心転写が子に起きるわけですから、これを逆手にとっていく手筋になります。親の自己変容へのチャレンジ姿という学びの中心浮遊が、家庭生活の現場で子供に転写されるだけの話です。

 「うちの親はなんか、今日も悶えながら勉強らしきものをしている」と印象を残せば良いのです。大人のアンラーニングの現場を子供のラーニングとして目撃現場にするので、親の背中でのアピールが重要です。まあ、③は「本をよく読む親の子供は読書が好き」みたいな相関関係を期待しましょう、ってな流れに分類できます。
 こういう時、個人商店とかフリーランスとかだと、親の働く姿を見せやすくてわざわざ感がなくて済みますね。仕事と生活、仕事と人生も重なり度合いが高いので、長く活動するための自己変容は常備して生きています。昔よく聞いた「仕事を家庭に持ち込まない」父親の美学は③の真逆なので、否定はしませんが、子供の学びの選択肢を狭めている可能性はあります。結果論ですが、意外とコロナ禍によるZOOMでの業務は親の単体変容(働き方への試行錯誤も含め)が、うっすらと子供の学びの中心軸にも揺らぎを与えていますよね。
 大人の必死さが伴うチャレンジなら、きっとなんらかの影響があるはずなので、コンフォートゾーンから抜け出るぐらいの趣味への入れ込みもアリ。楽器演奏でも料理研究でも、自己変容を伴うならもう趣味とはいえないだろうけど。


④「親と子の相互変容」
<Whole parents>が意識的に推しているのが、この親子の相互変容。親のアンラーニングと、子供のラーニングの場に、お互いのストレッチゾーンを重ねる方向です。
 すごそうですけど、実生活では結構あります。意識的にならなくても、大なり小なり宿命的に降りかかってきます。子供に生まれながらの持病があったりすれば、もうその時点から、親は今までの子供に対する自分が持っていた信念を変えることになります。「そもそも標準的な子供ってなんなんだ?」みたいな問いが自己変容へ導きます。また、親の介護もいづれ来るであろう自分の人生の終焉に向き合うことを意味しますから、「自分はあとどれくらいの生きる時間があるのだろうか?」など、自問せざるを得ません。これらシリアスな話は学びよりももっと高次の信念のゆらぎを提供します。「どう生きるのが望ましいか」について、ぼんやり考えていた自分が揺らぐのです。
 ですから、この下部組織のような「学びの中心軸」は、ほっておいても、高次のゆらぎの影響を受けることで、自動的に変わります。「子供の病と共に生きる生活に必要な学び」、「老いた親を先達とした、自分の残された時間を充実させるための学び」などが俄然、優先順位が高まります。そうなると、あとは、どれだけ相互変容に自覚的になるかですね。宿命だと思うと何やら滅入りますけど、自己変容の機会なのだと信じて取り組むなら、前向きさもアップします。

 我が家の場合。長女小学6年生は不登校を機会にして、「中学や高校といった既存の学校と、小説書きに入れ込み始めた自分との接点を、学びの中心軸にしよう」と試みているようです。小生もこの根拠なく自信満々な娘の態度に感化されて、「わかった!、トーチャンは、まずは不登校課題の関心人口を増やす!、それも楽しく」、そのためにストレッチゾーンに首を突っ込む。そんな覚悟で、この生活思創を書き溜めています。書きながら足りなそうな学びに気づいては、自ら探求していくので、ストレッチゾーンには清々しさが漂っております。(内容の浅薄さについては不問!)
 余談ながら、子どもがくれた学びの中心軸の変容チャンスだと感じております。

さて、まとめです。
 上記<図表9>にある4方向が、親と子の中心不動からの脱却、いわゆる、親の古い信念が子に引き継がれることに対処しながら、学びの中心軸を変容させていく主要パターンがあります。他にもありそうですが、まずは大どころです。
 その中でも、④の相互変容は四六時中起きませんから、他の①・②・③も意識的に混ぜながら、子育てを考えようという提案です。

 自分の中に残っている古い学びの信念に自覚的になることが自己変容になるなら、親子が一緒にいる家庭はその自己変容を加速させてくれる意味深い機会だと思うのです。

これもまた一つの信念なんだけどさ。

Go with the flow.



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