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2つの時間が交差する人生の最終段階

このブログは死について書いています。現在お辛い状況の方は落ち着いているときにご覧ください。
余命1ヶ月と告げられた父の、最期の話の続きを書いていきます。
前回は安楽死を望んだ父の話でした。


1.お百度参り

11月中頃に健康診断で異常が見つかり、月末にがんの告知を受けて、12月初めに精査目的のため入院しました。
父は治療する気満々で入院しましたが、実際は治療法が何もなく、余命1ヶ月と告げられました。

ついこないだまで長年働いた会社で嘱託として勤務していたのに、突然一切の希望が断たれてしまった父。
そして成すすべのない私たちでしたが、夫がお百度参りに行こうと提案してくれました。
大阪ではガン治療祈願の神社として、石切り神社がよく知られています。
朝早い時間でしたが、たくさんの人がお百度参りをしていて驚きました。


夫と私はそれぞれのペースで歩き始めました。本殿の前に戻って来ると立ち止まって手を合わせ祈願します。
ところが人が多すぎて、我れ先にと速足で歩く人たちの流れがあり、ぶつからずに抜けるのが大変でした。
そのため大回りをしていちばん外側を歩くようになりました。

険しい顔をして、ザックザックと人を追い抜きながら速足で歩く。
そこに意味があるのだろうか…?と感じました。
これが祈願になるのだろうか?と。
一方で、これだけ多くの人が病苦を抱え、藁にも縋る想いでお参りしているという現状がある。

看護師の私は大きな顔をして歩けない。
いちばん外を大回りすることが当然のような気がした。


私は初め、何をお願いすればいいのだろう?と考えながら歩いていました。
父のガンが消えてなくなることを願うのだろうか?
告知が何かの間違いだった…的なことを願うのだろうか?
検査結果が嘘でありますように…とか?

それは違うような気がした。
祈っている自分自身に違和感がある。
直面している状況に逆らうことが余計にしんどくなる。
心の中により強い葛藤が生まれるような気がした。

20周か30周ほど回った頃、心の中で願い続ける言葉が自然に決まっていった。
「みんなが最期まで穏やかでいられますように」
これが、私がいちばん願っていることだった。

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2.最期の姉の願い

父より5つ上の姉(私にとって叔母)は「治療方法が何も無いからといってこのまま諦めるのは嫌だ」と言って泣いていました。そして17年前はまだあまり知られていない民間療法を見つけて、父に訴えました。

病院から電車で1時間の場所にある大学病院で行なわれていました。
父は微熱で倦怠感があるものの、姉の気持ちもわからんでもない…とそれに応えることにして、大学病院を予約しました。
そして数十万円支払って袋にいっぱいの内服を持ち帰ってきました。

安楽死が叶わなかった父は、自分のことより姉の心配をしていました。娘である私の心配も。その話は父が亡くなった後に、夫から聞いて知りました。

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3.最期のクリスマス

私たち夫婦は、父に最期に何かできないか…と考えました。父はカントリーミュージックが好きで、休みの日に遠方の専門店に出かけて珍しいレコードやCDを買ったり、よくライブに出かけたりしていました。入院中もずっと枕元にMDがあり、ずっと音楽を聴いているようでした。

一度だけ、誰のライブに行ったのか尋ねたことがありました。
私は数百枚並んでいるCDのラックから、何とかその人の名前を見つけ出し、連絡を取ることにしました。
そして意を決して、父のためにライブをしてほしいと手紙を送りました。

何通も送るつもりでいました。
父が外出できるのはおそらく後2~3週間。
メールも送りました。
すると予想外に早く返事をいただきました。

クリスマス時期で超多忙だったにも関わらず、何とかスケジュールを調整してプライベートライブのプランを立ててくれ、
おそらく私が提示した予算は全然足りなかったと思いますが、何の文句も言わず快く引き受けてくださいました。
本当に本当に有難かったです。

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その頃の父は吐き気が起こるようになって、あまり食事が摂れなくなって来ていました。
叔母が父に頼んで受診して処方してもらった民間療法の薬も、2,3回飲んだだけで、飾り物のように床頭台に置かれているだけになっていました。

車で病院に迎えに行き、父にはサプライズの企画をしました。
「どこ行くねん…」と言いながら怪訝な顔をしていた父ですが、ライブハウスに入って憧れのその人を見たときだけは「すごい…!ほんまか!」と驚いた表情をしていました。

父と私と夫と叔母と。
4人だけのプライベートライブ。
クリスマスライブの後だったため、本場のアメリカからゲストのミュージシャンも来日していて、父と私たちは一緒に写真を撮ったりしました。

ですが何か…
私の心の中にしっくり来ない感覚がありました。
その時はわからなかったけど。


後でその時の写真を見て、気づいたんです。
写真に写っている父の顔はどれもみんな陰っていて、辛そうなことに。
本当にこれで良かったの…?
でもその時の私は自分に問いかけることができなかった。
そうじゃないと気づくことが恐かったから。

だって、父のために…
そのつもりだった。
だから普通できないことを実現した。
だけど実は…

実は…
それは…
自分が後悔しないためだった。

私がしていたことは暗示的に「あなたは最期だよ」「もう終わるんだよ」と伝える行為だったと思う。
私は本当に父のことを考えていたのか・・・
父は憧れのアーティストの前で弱い自分を一生懸命ごまかして、笑顔で取り繕っていたと思う。
ごめんなさい…、しかなかった。

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4.最期のお正月

入院してから1ヶ月。年末年始は何とか自宅で過ごしたが、父は自分の部屋にこもりがちでした。病院にいるよりは過ごしやすいかもしれないけれど、逆に病院から離れるのは不安が強まるようでした。

1月3日。父には何十年とお付き合いのある女性がいました。それぞれに子供があるので互いに再婚するつもりはなく、良き人生のパートナーのような存在だったと思います。

その彼女が父のために、病院に隣接するホテルでお正月限定で行なわれる「福笑い寄席」のチケットをとって誘ってくれました。ホテルの玄関まで父を車で送り、私たちは見送りました。

自宅に外泊をしたとはいえ、もうほとんど何も食べれなくなっている父。部屋で何か片づけをするでもなく、ベッドで音楽を聴いているのがほとんどでした。だんだん無口になっていました。

彼女から後から聞いた話では、じっと座っているのがしんどくなって、早めに病院に戻ったとのこと。きっと笑える状態ではなかったのだろう。
ああ、また父は周りのために頑張ったんだな…と思いました。

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5.2つの時間が交差する

余命告知の通り1ヶ月で動けなくなった父。
父は誰のためにこの短い時を過ごしたのだろう?

家族は父のためにと想い、最善を尽くした。
父も残される者のことを想い、最善を尽くした。
そこに「残される者の想い」と「旅立つ者の想い」があった。

「旅立つ者の想いを叶えること」は
「残される者が後悔しない時間にすること」

「残される者が後悔しない時間にすること」は
「旅立つ者の想いを叶えること」
ではなかろうか。


私たちは常に誰かと共にいる。
それは家族じゃなくても同じ…
“自分”という存在があるのは“自分以外”の存在があるからで。
“自分以外”がなければ“自分”である必要がなくなってしまう。

“自分”というのは人間関係の上に存在してる。
幸せも、不幸も。
だから自分だけが幸せになることなんてできないし、不幸は誰かのせいじゃない。

人はひとりで生きてない。
私たちは“自分と自分以外”という2つの存在の間で揺れ動きながら生き、揺れ動きながら死ぬのだろう。

2つの時間が縦横無尽に交差しているような1ヶ月間だった。
私たちは、何のために死ぬのだろう?
意味があるはずだと思う。
でなければ生きていることの意味も消えてしまうじゃない。

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