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体の中に蟹が棲みついたの

ガレージ脇の細い通路にうずくまった浮浪者を一瞥する、その身体に染みついた酷い臭気、すえたような臭いに、おもわず吐気をもよおした。もう何日もクッツェーの『鉄の時代』の中をさまよっている。暴虐の裏に貼りつく恐怖、憎悪を私は知らない。退職したラテン語教師が癌再発の告知を受ける場面から物語は始まるの。時はアパルトヘイト体制が終わりに向かう断末魔の苦しみの時代。大地の下に埋められた人々の叫びを足裏に感じながら、私は歩いている。たいがい本を読んだ後は、暫くその物語の中から抜け出せなくなる、それはいつものことだけれど。

いま自分を彼女たちの手にゆだねてしまえば、どれほど楽になるか!清潔なシーツ、この身体に触れるきびきびとした手、痛みからの解放、無力であると自己放棄することーわたしに降伏させずに踏みとどまらせているものとは、いったいなに?(102頁)

同じことを言った人がいた。癌の再発、骨への転移、激しい痛みーあまりに似通った状況に、どうしても70歳の元ラテン語教師とその人が重なってしまう。その人にも愛しい娘がいたのだから、最期に抱きしめて欲しいと切望した娘がいたのだから。『鉄の時代』は南アフリカに住むひとりの白人女性カレンがアメリカに住む娘に語りかける、届くかどうかも分からない切なる遺言、その衝撃的な展開は暗黒時代に自らの可能性さえ知らずに命を落としていった少年たち、子供時代を持たない彼らの哀れとともに重苦しくあとをひく。何一つ抗うことができないでいる。生きるって、どういうこと?私は自問反芻しながら歩いていた。

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画像は南アフリカのカルー高原、クッツェーが子供時代を長く過ごした場所、なんと乾ききった光景だろうか。

泣くことでは消えない、深い悲しみ。わたしはからっぽ、わたしは殻だ。運命は、わたしたちそれぞれにふさわしい病を送りつける。わたしの病は内部からわたしを喰いつくすもの。もしもこの身体を大きく切開したら、人形のように内部がうつろなことがわかるはず。一匹の蟹が鎮座して舌なめずりしながら、おびただしい光の洪水に目を眩ませているのがわかるはず。(164頁)

骨まで喰いつくす病の正体が、まるで自らの恥を積み上げた報いのようにも感じられる。cancerはラテン語では蟹の意らしい。そういえば、私の体の中にも蟹が一匹棲んでいる。



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