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11軒目:本多劇場

音楽と演劇、古着とカレーの街として知られる下北沢。その「演劇」の部分はここの存在なしにはあり得なかった。それが本多劇場である。

1981年の〈ザ・スズナリ〉を皮切りに、〈本多劇場〉、〈駅前劇場〉などを次々と開場。その後も大小さまざまな劇場を設け、現在下北沢で8つの劇場を運営するのが本多劇場グループ。その代表である本多一夫さんと、息子で総支配人を務める本多愼一郎さんにお話を伺った。

心の内にあった演劇への思い。いつかは自分の劇場が欲しいと漠然と考えていた

本多一夫さん「僕は北海道の札幌生まれで、俳優を志して1955年に『新東宝ニューフェイス』というオーディションに合格して上京して下北沢に住み始めたんです。当時の新東宝には宇津井健さんや天地茂さん、菅原文太さんなんかがいて、僕もいろんな役をやったんだけど役者としては芽が出ず、数年で会社も倒産しちゃったの。

それをきっかけに役者には見切りをつけたんだけど、いつも通っていた食堂のおばちゃんに『これからはバーってのが流行るんだって。ここを貸してあげるからお店でもやりなさいよ』って言われて。それで借金して改装して、バーを開いたんです。そうしたら、役者が集まるお店だっていうんで繁盛してね。これはいいぞと飲み屋を年に3軒も4軒も作って、最盛期には下北沢だけで40軒くらいお店を持っていたのかな。

だけど、自分の中で演劇への思いがはずっとあったんです。札幌の演劇研究所にいたとき、東京から来た講師の先生が『小さくても自分たちの劇場が欲しい』ってよく言ってたの。せっかく芝居を作っても発表する場がないのはつまらないでしょ?だからいつかは自分の劇場が欲しいと漠然と考えていたわけ。今の本多劇場があるマンションの土地、元々ここには銭湯があったんだけど、38歳の頃、その跡地を買わないかって相談があった時に『よし、ここに劇場を作ろう』と。上をマンションにして分譲して、その下に劇場を作れば経営も成り立つし、お客さんも駅から雨に濡れずに観劇に来られるじゃないかってね。」

土地の購入を機に演劇に邁進することを決めた一夫さんは、経営していた数十軒の飲食店をすべて人に貸し、80年に演劇養成所として〈本多スタジオ〉を設立。翌81年には若手演劇人のための実験劇場〈ザ・スズナリ〉を開場。そして翌年11月、藤和下北沢ハイタウンの竣工とともに客席数386席を誇る〈本多劇場〉をオープンさせた。構想から10年の月日が経っていた。  

本多愼一郎さん「劇場とマンションが出来たのは僕が7歳の時。その前は親父が土地を遊ばせておくのは勿体ないと月極駐車場にしていて、小さな頃は一日中そこで遊んでいたのを覚えています。70年代後半には唐十郎さんの劇団唐組がここで紅テント公演というのをやって、話題になったんですよね?」

一夫さん「そうそう。あと79年にはバー〈レディジェーン〉の大木雄高さんたちが中心になって『下北沢音楽祭』というのも開かれて人がうんと集まったって出来事もあった。当時の下北沢は今に比べると静かな街だったけど、そういう積み重ねもあって、ここにちゃんとした劇場を作ればきっとお客さんは来てくれるという自信のようなものが芽生えたね。」

80年代前半は、個性豊かな演技スタイルで若い観客の支持を集めた「小劇場ブーム」が巻き起こっていた。本多劇場はその時流にも乗って話題のスポットとなる。

一夫さん「梅沢富美雄さんの『梅沢劇団』もそう。すごくお客さんを集めていて、毎公演毎公演おひねりが飛びまくって、それはもう凄かったですよ。彼はそこからヒット曲を出して一気にメジャーな存在になりましたね。あと野田秀樹さんがやっていた『夢の遊眠社』も当時は年間3か月ぐらいウチで公演していました。毎回満員になるものだからどんどん公演回数が増えていって、終いには『6か月間貸し切りにしてほしい』なんて言われて。それじゃ本多劇場じゃなくて野田劇場になっちゃう(笑)。」

使い勝手にこだわるよりも、ここで芝居したいと思って貰えるような場所を作りたい


そんな劇場の盛況ぶりをずっと目の当たりにしていた愼一郎さんが、同じ道を志すのはごく自然な流れだった。劇団の研究所を経て本多劇場グループで働き始めた愼一郎さんは、各劇場の機材管理を含めグループの運営を全面的に担っている。

愼一郎さん「子供の頃から手先が起用で、10代になるとバイクいじりに熱中していました。だから劇場の照明の交換から機材の修理まで何でも自分でやっちゃうんです。総支配人って偉そうな呼び名ですけど、実際のところは何でも屋ですね(笑)。

ウチが手掛けている劇場の多くは下北沢の街中で限られたスペースに作っているので、変わった形状の所が多いんです。客席が二面に分かれている小屋は2軒ありますしね。決して使い勝手のいい劇場ばかりではないけど、『ここで芝居をしたい』と思って貰えるような個性的な場所にしたいとはいつも思っています。

あと意識しているのは街との繋がり。下北沢という街を形作るひとつに劇場があると思いますし、観劇後に近所でお酒を飲みながら感想を言い合ったり、演者同士で打ち上げしたりというというのも大抵下北沢になるわけじゃないですか。3年前、近所にジンギスカン屋の〈Gakuya〉を開いたのですが、それもそうした考えからなんです。」

今も昔も、小さな飲み屋がたくさんある楽しい街、下北沢でなんとか劇場を続けて行く

ここ数年、日々大きな変化を見せる下北沢。2人はそれをどう捉えているのだろうか。

愼一郎さん「〈本多劇場〉がオープンした頃に比べると劇的に変わったと思いますけど、元々下北沢ってしょっちゅう変わる街なんです。〈本多劇場〉が入るマンションが建った頃はここが下北沢で一番高い建物で、街の景観的には劇的な変化だったでしょうし、昔はちょっと奥に入ったら静かな住宅街だったけど、今はずっとお店が続いているじゃないですか。その意味では下北沢の街自体がすごく広がっていますよね。だから近年、駅前があれだけ変わってもそう抵抗感はないと言うか。」

一夫さん「本多劇場グループ以外にも劇場が増えて、『シモキタは劇場の街』と呼ばれるようになったのは80年代後半から。だからまだ40年も経っていないんですよ。今でも夜になると昔からの習慣で外に飲みに行くんだけど、そうやって人に会うのが僕にとっては一番の老化防止なの。再開発とか色々あるけど、今も昔も、小さな飲み屋がたくさんあるってのは楽しい街ですよ。」

そんな本多劇場グループも、コロナ禍で長きにわたり8つの劇場の休館を余儀なくされた。

一夫さん「何しろ、街に人が歩いていないという状況が初めてだったからね。オープン以来一番の危機だったんじゃないかな。」

愼一郎さん「当初は『本当にどうすればいいんだ?』と自問自答の日々が続きましたし、正直いくつかの小屋を閉めることも頭をよぎりました。でも、一度閉めてしまった小屋は簡単に作り直せない。そう考えるとここで踏ん張らないと、と思い直したんです。

僕ら劇場だけではなく、ライブハウスも閉めざるを得ない状況が続きました。そんな頃、ある飲み屋の店主に『本多さんのところはいつ再開するの?』と言われたんです。その口ぶりに、『早く再開して貰わないと困るよ』というニュアンスを感じたんですよ。その時に劇場やライブハウスが閉めることによる街への影響の大きさを痛感しましたね。

ひとつひとつの劇場は小規模でも、多い時には本多劇場グループだけで1日2千人くらいのお客さんが下北沢に来ていただける。ライブハウスも合わせるとその倍くらいでしょう。それだけ多くの人たちが飲み食いしないというのは、飲食店にとっても本当に苦しいことなんだなと……。

ようやくまん延防止の規制は解除されたものの、劇場は客席の最前2メートルを開けないとなりません。劇場によっては客席前方2列が潰れ、その分のお客様を毎公演お断りしなければならない。なんとか劇場を続けること。今考えているのはそれだけですね。」

本多一夫さん
1934年生まれ。北海道から上京し、俳優として活動した後に下北沢でバーを開店。事業を拡大し一時期は数十軒の居酒屋を経営。81年に〈ザ・スズナリ〉、82年に〈本多劇場〉を開場するなど「演劇の街・下北沢」の礎を築く。現在は本多劇場グループ代表。

本多愼一郎さん
1975年、本多一夫さんの長男として生まれる。劇団青年座研究所で演技を学び、99年に本多劇場グループに入社。〈「劇」小劇場〉などの責任者を経て2013年から同グループ総支配人を務めている。

【本多劇場】
東京都世田谷区北沢2-10-15
TEL 03-3468-0030
www.honda-geki.com

写真/石原敦志 取材・文/黒田創 編集/木村俊介(散歩社)


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