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トーマス・スターンズ・エリオット(著) 『荒地』
トーマス・スターンズ・エリットが34歳のとき、気管支『クライテリオン』に掲載された長詩『荒れ地』(The Waste Land)。「四月は残酷極まる月だ」(じつはわたしが読んだのは、彌生書房の詩集。翻訳の監修が田村隆一)。
感想
エリットの詩は何かとかっこつけたちが引用するので、一通り読んでおきたいのだけれど、読むと自分もやっぱり引用して格好つけたくなる。しかし問題は、エリットの詩自体が多くの引用からなっていて、その引用もとをざっくりでも理解していないと恥をかきそうで引用しがたいのです。
しかしただ自分のためにだけ読めば、そこには名状しがたい気配、退廃感、キリスト教の気配、やるせないけれど生きていく、そういうもののなかを思念がざっくりと潜り込み、抜出で、でもそのあとに服のあちこちのその気配を証明する粒子がこびりつく、という体験ができる。
たとえば、荒地の他に入っている『アルフレッド・プルーフロックの恋歌(こいか)』に出てくるこんな言葉は、しらないうちに自分の記憶にすり替わっていたりしました。
わたしは20代の頃、この詩を読んでからか、その前かに歩いたことを読んで思い出したのか、北海道の銭函という場所の海外を細い雨降る中、一人で歩いた情景を思い出します。フランネルのズボンは履いていなかったけれど。
トーマス・スターンズ・エリオット
T・S・エリオット(トーマス・スターンズ・エリオット 英: Thomas Stearns Eliot、1888年9月26日 - 1965年1月4日)は、アメリカ合衆国出身のイギリスの詩人・文芸批評家。
5部からなる長詩『荒地』や詩劇『寺院の殺人』によって20世紀前半の英語圏で最も重要な詩人の1人と評されています。創作における歴史的伝統の意味を論じた「伝統と個人の才能」などの評論で批評家・保守派文人として欧米の文壇・言論に巨大な影響を残しました。1948年(60歳)、ノーベル文学賞受賞。反ユダヤ主義者で知られる。
反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと。
生涯
1888年、アメリカのミズーリ州セントルイスで富裕な実業家の家に第7子として生まれる。エリオット家は17世紀にイギリスのサマセット州から移住してきた家系で、祖父が牧師として赴任してきて以来、教会の建設や大学創設への貢献によってセントルイスの名家として知られていました。父母とも詩才があり、恵まれた文学的環境で育ちました。
1898年にスミス学院に入学。1904年、セントルイス万国博覧会を探訪中、フィリピン会場のイゴロット村に魅せられる。翌年執筆した短編「昔は王様だった男」はその探訪成果です。
モダニズムへの傾倒
1906年(18歳)にハーバード大学に入学。フランス文学と古代・近代哲学、比較文学などを学ぶが、やがてアーサー・シモンズ『文学における象徴派の運動』などに触れてモダニズム運動への傾倒を深めていきます。
モダニズムとは、モダニズム文学というフレームにおいては、20世紀文学の一潮流で、1920年前後に起こった前衛運動を指したものです。都市生活を背景にし、既成の手法を否定した前衛的な文学運動。ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本、ラテンアメリカなど各国でその動向が見られました。
1909年(21歳)には大学院へ進学、ジョージ・サンタヤナとアーヴィング・バビットから指導を受け、とくに近代の進歩に懐疑的立場をとるバビットに共感していきます。同時期に学内の同人誌に詩を寄稿し始めました。
1910年(22歳)にパリへ留学。当時のパリではあたらしい文学・思想運動が相次いで勃興していましたが、とりわけコレージュ・ド・フランス(Collège de France)で聴講したフランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソンの講義や、シャルル・モーラスの反古典主義に強い影響を受けました。
このころ書かれたのが初期の代表作「プルーフロックの恋歌(こいか)」で、ベルクソンの「純粋持続」の観念に大きく影響されています。
1911年末(23歳)にハーバード大学へ戻り、サンスクリットと古代インド哲学の研究に没頭します。1914年(26歳)にはまずベルリン、ついでイギリスに渡りました。
イギリスではオックスフォード大学に滞在して観念論哲学者F・G・ブラッドリーに関する論文を執筆し、これは2年後にハーバード大学へ博士号請求論文として提出されましたが、結局学位は取得しないままとなりました。
1915年(27歳)には先輩詩人エズラ・パウンドの誘いに応じてイギリスへ拠点を移し、オックスフォードで知り合った女性ヴィヴィアン・ヘイ=ウッドと結婚しました。
しかし父親はヴィヴィアンとの結婚に強く反対し、またアメリカを離れ、一族の信仰だったユニテリアン派(Unitarian:キリスト教プロテスタントの一派)を捨てたエリオットに対して遺産の相続を拒否。そしてエリオットが死んだ場合にもヴィヴィアンへは財産が遺贈されないよう取り決められました。そのため、富裕な一族の息子として欧州とアメリカを自由に行き来しながら詩作と学業を続けていたエリオットは、一転して経済的な苦境にさらされるようになりました。さらに妻が神経症をわずらったため多額の治療費が必要となり、一般向け公開講座の講師や雑誌への寄稿などで家計をささえる生活がつづきました。
1917年(29歳)にロイズ銀行(Lloyds Banking Group plc)の渉外部門に職を得て、からは生活が安定しはじめ、本格的な文学活動を開始します。パウンドが主宰者の1人だった文芸誌の編集に加わったほか、パウンドの助力を得て1917年に第1詩集『プルーフロックとその他の観察』(Prufrock and Other Observations) を刊行します。
1919年(31歳)にヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)らが経営する出版社から刊行された『詩集 - 1919年』(Poems 1919)、また翌1920年に主要な初期作品をおさめて出版された詩集『われ汝に請う』(Ara Vos Prec, アメリカ版題名『詩集』Poems )は大きな成功を収め、英米両国において、エリオットは英語圏における重要詩人としての名声を獲得することになりました。
1920年(32歳)にはまた評論集『聖なる森』(The Sacred Wood) を刊行。ここにおさめられた「伝統と個人の才能」(Tradition and the Individual Talent) や「ハムレットとその問題」(Hamlet and His Problems)は、アメリカの文壇にとどまらず、ケンブリッジ大学で学問としての英文学の精密化をもくろんでいたI・A・リチャーズ、その学生F・R・リーヴィスなど、アカデミズムでも幅広い範囲で大きな衝撃を持って受け止められ、ここから新批評が始動してゆきます。
長詩「荒地」
1922年(34歳)、編集委員に加わって季刊誌『クライテリオン』を創刊、この創刊号に掲載されたのが長詩「荒地(あれち)」(The Waste Land) です。
この詩は1920年(32歳)頃から書き継がれていた作品で、21年にスイスのローザンヌで病気療養中に完成、翌22年(34歳)にパリでエズラ・パウンドに批評をもとめたうえで完成させました。
同年アメリカとイギリスで単行本として出版されると、まったく新しい詩の登場として英米の文学界でただちに大きなセンセーションを巻き起こしました。
『タイムズ文芸付録』は世界の混乱と美を同時にえがく感動的な作品と激賞したが、一方で詩としての体をなしていないとする批判も多くありました。しかしそこに盛り込まれた都市のイメージ、ジャズのリズムを反響させた詩句は、第一次大戦後の新しい感受性のあらわれとして学生や詩人の間で熱狂的に読まれることとなりました。
妻の病気と銀行の仕事に追われながらの文学活動は苦しいものでしたが、1925年(37歳)には代表作のひとつ「うつろな人々」(The Hollow Men) を発表し、ますます文名は高まっていきました。同年エリオットは銀行を退職、編集者として後のフェイバー・アンド・フェイバー社で働き始めました。
宗教詩への関心
1927年(39歳)、イギリス国教会で洗礼を受け、またイギリスの市民権を取得します。翌28年の『ランスロット・アンドルーズのために』(For Lancelot Andrewes) の序文で,彼は「文学においては古典主義、政治では王党派、宗教はアングロ・カトリック」と自分の立場を宣言しています。母の死後に発表された1930年(42歳)の『灰の水曜日』(Ash-Wednesday) は、ダンテ『神曲』のベアトリーチェを思わせる聖女が煉獄の階段をのぼるという宗教詩の気配をつよくまとうものになりました。
このころからエリオットの名声はさらに高まり、1932年(44歳)にはハーバード大学教授に招聘(しょうへい)され、17年ぶりにアメリカへ渡りました。
アメリカ滞在中にはプリンストンやイェールなど多くの名門大学で講演を行い、それをまとめた『詩の効用と批評の効用』(The Use of Poetry and the Use of Criticism) で表明された詩劇への関心が、のちに殉教者トマス・ベケットをあつかった詩劇『大聖堂の殺人』(Murder in the Cathedral)などに結実していきます。またアメリカ滞在中に、妻ヴィヴィアンと別居するようになりました。
イギリス帰国後の文学活動はさらに幅を広げ、野外演劇フェスティバルへの参加、ケンブリッジ大学での講義など多忙をきわめました。
このころ書かれた猫の詩「ポッサムおじさんの猫とつき合う法」(Old Possum's Book of Practical Cats) はイギリスのナンセンス詩人エドワード・リアへの関心から書かれたナンセンス詩で、エリオット没後にミュージカル『キャッツ』に翻案されて人気を博することになりました。
戦争中に書かれた作品の代表的なものは『四つの四重奏』(Four Quartets)で、これは危機を迎えた社会における古い伝統や歴史の重要さに目を向け、文明が再生する希望を語っているなどと評されました。
名声の高まり
戦争が終わっても英語圏の論壇でつねに注目される批評家としての活動はつづき、『キリスト教社会の理念』や『文化の定義のための覚書』などを相次いで刊行しました。
このころ妻ヴィヴィアンとの距離は決定的なものとなり、ロンドンで友人のジョン・ヘイウォードとの共同生活をはじめました。1947年(59歳)には、1933年に離婚していた元妻ヴィヴィアンが入院先の病院にて急死、さらに兄も死亡した衝撃で一時詩作は停滞しましたが、同じ年にハーバード大学から名誉学位授与、翌1948年には英国王ジョージ6世からメリット勲位、さらにノーベル文学賞を授与されています。
以後は世界的知識人・文人としてヨーロッパとアメリカを往復し各国で講演・講義を行いながら、数多くの評論・詩劇を発表しつづけます。
私生活では、エリオットの秘書をつとめていたヴァレリー・フレッチャーと1957年(69歳)に結婚。1965年に76歳で亡くなるまで出版社の重役でもありました。私信などの文書類を2020年まで一切公開しないように妻ヴァレリーに遺言を残しました。亡骸は遠い祖先の村だったサマセット州イースト・コーカーの聖マイケル教会に葬られています。
1984年には、マイケル・ヘイスティングズによるエリオットとヴィヴィアンの生活を描いた戯曲「トム&ヴィヴ」が書かれて公演され、1994年には邦題『愛しすぎて/詩人の妻』として映画化されています。
主な作品
荒地
1921年(33歳)に初稿を執筆。エズラ・パウンドの助言により、エピグラフ(コンラッド『闇の奥』の引用)の変更や、エピソードの削除等を行う。
1922年(34歳)に433行の長詩として文芸誌に発表しました。サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザー『金枝篇』の聖杯伝説を骨格として、聖書、ダンテ、シェイクスピアなどの引用をちりばめ、意識の流れの手法も用いて、第一次世界大戦後の荒廃した世界と救済への予兆を描きだそうとしました。末尾にはサンスクリット語も使用され、インド思想の影響も指摘されています。
四つの四重奏
1935年(47歳)から1942年(54歳)発表の「バーント・ノートン」など4編を1つにまとめたもの(1943年)。『荒地』のような緊張感は低く、初期作品と比べると宗教的な主題がより鮮明となっています。
大聖堂の殺人(寺院の殺人)
1935年(47歳)に発表された詩劇。殉教者トマス・ア・ベケットを主人公としています。無韻詩で書かれている。『寺院の殺人』(1935年)の第2幕に登場する「誘惑者」と主人公トマスの対話は、シャーロック・ホームズの「マスグレーヴ家の儀式」(The Musgrave Ritual)を真似たものです。
カクテル・パーティ
1949年(61歳)発表の詩劇。エウリピデスの「アルケスティス」に想を得て、弁護士エドワード・チェンバレンとその妻、映画脚本作家ピーター・キルプ、女性詩人シーリア・コプルストーンの4人の恋愛関係を精神科医のヘンリー・ハーコート・レイリー卿が解決する。現代社会を喜劇的に描いたものです。
“キャッツ”
1939年(51歳)、児童向けの、様々な個性的な猫たちについての15篇の詩から成る 『キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法』を発表しました。ポッサムおじさんは、エズラ・パウンドがエリオットにつけたあだ名です。エリオット没後、ウエスト・エンドとブロードウェイにおいて1981年に初演されたアンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカル『キャッツ』の原作となりました。
日本との関わり
『荒地』の衝撃は世界各国とほぼ同時期に日本へも伝わり、1925年(37歳)にはイギリス留学から帰国した西脇順三郎が慶應義塾大学でエリオットを講じているほか、春山行夫らが雑誌でモダニズム文学を紹介しています。しかし本格的な受容は戦後になってから。
1952年(64歳)に西脇が『荒地』全訳を刊行、深瀬基寛や吉田健一も相次いで独自訳を発表した。第二次大戦後に活動を開始した田村隆一や鮎川信夫・加島祥造・北村太郎・中桐雅夫などの詩人には「荒地派」の名前が冠せられました。
批評面では山本健吉がエリオットの伝統概念を日本の古典文学に応用した『古典と現代文学』を1955年に発表しているほか、また福田恆存は『一族再会』『カクテル・パーティー』などの詩劇に強い影響を受けてラジオドラマ『崖のうえ』などで詩と劇の融合をこころみています。
参照
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