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<戦時下の一品> 川原式防空カバー

 防空演習が1928(昭和3)年の大阪を皮切りに各地で行われるようになりますが、いすれも夜間に外に光を漏らさず、敵機から空襲の目標を隠す「灯火管制」が特に重視されました。これを将来の科学力の前には無意味で暗闇で住民が混乱するだけと喝破した信濃毎日新聞主筆桐生悠々が軍部の圧力で退社させられるほど、灯火管制は重要事項とされていました。

 そこで電灯に付けるさまざまな灯火管制用の「傘」が作られ販売されましたが、それらが主に紙製で電球の熱を避けて大きめに作られていたのに対し、今回入手した「川原式防空カバー」は、おそらく全体がアルミで作られていて、電球のすぐそばにあっても燃え上がらないという仕様にし、小型なのが特徴でした。

たいていは前例がないので「新案」と銘打っています
最大直径8センチとコンパクト
三段まで伸ばせて高さは最大12センチ
底に蓋を取り付けると
小さい穴だけになって光を絞り込みます

 説明図も入っていましたので、どういう状況で使うか紹介しますと、平常は一番短い状態にし、蓋はコードにしばった針金にかけておくとしています。確かに針金が入っていましたので、完品です。

平常時は一段でコードのところに蓋がかかっています
針金と蓋

 そして「警戒管制時」に全部引き出して光を絞り、「非常管制時」は底に蓋をするとしています。

まだ蓋は使わない。本体を三段まで伸ばしています
最終形態が蓋付きとなります。こうは光が広がらなかったでしょう。
燃えないかという人のため、安全だが30ワット以下で使用をと

 おそらく全体がアルミであったとみられるこの防空カバー、民需の金属が規制されていなかった日中戦争前までの商品だったでしょう。また、紙や布よりも高いものとみられるので、数もそう多く出回らなかったと思われます。
 とにかく、防空演習に合わせて、何か商売をと考えた人が「新案」として作ったのは間違いありません。代用品とかも新案特許申請中というものがいっぱいありますし。いずれにしても、こうした対策に追われる日々はご免ですね。

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