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初の本格的な対外活動は散々ー独自展示会前史・その1

 信州戦争資料センターを名乗って有志で展示会を開き始めたのは、戦後70年に合わせた2015年からですが、初めての本格的な対外活動となったのは、前の年の2014年8月13日、長野市内で開かれた30回目の「長野空襲を語る集い」でした。元々、収蔵品を死蔵しておくつもりはなく、何らかの形で生かしたいと思っていたこと、集いの事務局からの誘いもあったことで、展示と戦時下の防空指導の紙芝居実演を行うことになりました。

 集い自体は、終戦2日前の1945(昭和20)年8月13日に現在の長野市と上田市が米軍艦載機に空襲され、少なくとも47人が死亡した「長野空襲」を伝承していく狙いで、2023年現在も、長野市内で同じ日に開かれています。

 展示品は、戦争中に防空教育に使った紙芝居や、物資不足の中で紙を固めて作った防空帽、松本市役所で使っていた防空関連の冊子などで、長野空襲を伝える当時の新聞もパネルにして並べました。また、参考資料として、広島の原爆で表面が熔解した瓦を広島の地図と組み合わせた台に並べて展示しました。

防空を教育する紙芝居
当時の新聞や原爆瓦など

 実演は「防空壕」と題した、太平洋戦争開戦目前に作られた紙芝居でした。内容は、ドイツ軍のイギリス本土空襲を体験した、ロンドン帰りのおじさんの提案で隣組で防空壕をつくり、空襲に耐えるという内容です。具体的に防空壕の作り方を教えるため、細かくサイズも入っています。自分が当時の指導者になりきったつもりで、まさに戦前の防空教育の雰囲気で演じ、紙芝居の中に出てくる防空の歌も練習して歌いました。

 ところが、最後の会場からのご意見で「紙芝居はまったくだめ」と厳しい声がありました。どうやら、わたしが戦前の国の姿勢を肯定し、戦争賛美をやったと勘違いされたようです。「天壌無窮の皇運を扶翼し…」なんてやっちゃいましたから。そのあたり、服装を切り変えるなり、ちゃんとお芝居の部分と自分が伝えたいことを区別する工夫をした方がよいようです。今後の反省にしました。

表題写真とこちらは、1945年8月14日の信濃毎日新聞より。

 わたしのほかに体験者の発表もあり、当時目標となった長野機関区の様子、いのちからがら逃れた雰囲気を伝えていただきました。それに比べれば、確かに紙芝居の選定自体から、もっとよく考えねばならなかったと悔やまれました。

 会場には、ほかに長野空襲時の艦載機がばらまいた薬きょうや、新たに若い人が長野空襲を実施した空母機動艦隊の模型、空襲を受ける長野飛行場のジオラマを展示してくれていて、楽しませてくださいました。この時は写真をとる余裕がなかったので、参考に翌年の集いでの展示写真をどうぞ。

2015年の長野空襲を語る集いより
2015年の長野空襲を語る集いより。長野飛行場空襲ジオラマ

 決して成功とはいえない初の対外活動。展示スペースも窮屈でみてもらう時間も確保できませんでしたが、いずれも貴重な教訓としました。また、体験者の語りだけに頼らず、紙芝居や模型など、さまざまな方法を組み合わせることで、当時をより身近に感じてもらう場が生まれてきた、節目の集いでもあったと思います。ここに少しでも参加させていただき、そんな雰囲気を今後に生かしていけると思えたのが収穫で、翌年の独自展示会につなげていくこととなります。

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